2016年6月7日(火)~2016年8月7日(日)
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
詩人の展覧会と聞いて内覧会に駆けつけた人は多かった。美術館でいったい何を見せるというのだろう。感じたことを書き留める。
・原稿やメモ帳の文字は極小の米粒
・会場は暗い、静寂
・壁、台、床、天井へと視線は無尽に宙を遊び、
・透ける布の先で人が動く
・頭上から声が降り注いでくる
・意味はおそらく、いらない
・声を空間のなかに埋め込むという作業
・詩とは何か
要するに、読解することも、聞き取りすることもままならず。
何か理解して共有した気になる安易さを放棄せよ。
ぼんやりと薄暗い空間のなかで、詩人のイメージの海に溺れる。
画家にとってのイメージがビジュアルのかたちをとるとしたら、
詩人にとってのイメージは音、声のかたちをとる。
そのイメージとは、
あるときは写真化された「声」
あるときは銅版化された「声」
原稿にびっしりと書き込まれた「声」
すなわち「声」。
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カセットテープ「声ノート」 |
企画を担当した保坂健二朗氏によると、
近代美術において詩が果たした役割を見逃すことはできず、芸術家のクリエーションの立ち上がり時におけるポエジーのピュアな在り方を抽出して見せるということは近代美術館にとっては1つの試みである、というようなことであった。ピュアネス。
吉増氏の自宅に保管されていた千数百本にもおよぶ声ノート(カセットテープ)には自身のメモ代わりの声や朗読などが記録されていて、これを託された時に「声を主体とする」という展覧会の方向性が定まったそうだ。
よく見れば、写真や映像は多重音声のようなイメージのコラージュになっているし、日記や原稿は独特の楽譜のように音の抑揚を示しているように見える。帯のように長く伸ばされた銅板において重要なのはそこに何が刻まれているかではなく、むしろ言葉(声)を打刻する際に生じる音だ。吉増氏にとってメディアとは、詩人の声を写しとり、見えない声をあぶり出す装置のようである。
保坂氏からマイクを託された吉増氏はその両耳をヘッドホンで覆っていた。自分の音声を聞きながら話すのだという。「誰にでも異常なところがある。自分の場合は聴覚に頼るタイプであるということだ」。
吉増氏は京都で空海の書、「手控え」と呼ばれるメモ書きのようなものを見た時、その自由さ、呼吸が全部伝わってくるような気がしたという。日常のしごと、すなわち発表を前提としない「カジュアリティ」のなかにあるいきいきとした空気。その「やわらかなたましい」こそ、今の時代に回復していかなければならないのではないか。そういうことを展覧会の準備中に考えたという。
本展は、文学としての詩の分析ではなく、吉増氏の「手控え」的なエレメントを並べた7つの部屋から成る。それらは薄い布によるゆるやかな境界を得て影響し合い、保坂氏が「クリエイションの立ち上がり」と説明したような、作品が生まれる前の渦のようなインスタレーションとなっている。そしてそこは声や言葉に満ちていながら、とても静かで厳かな印象だ。
3.11の翌年から吉増氏は「怪物君」というタイトルの詩を書きはじめた。「言語それ自体が透視力をもつようになるまで、音と言葉のあいだの妖精みたいな奴をとっつかまえる、ような作業だった」。
敬愛する吉本隆明氏の詩を書き写し自らの身体に取り入れた。吉本氏の詩に「全生活・全領域に対する配慮」を感じとり、詩そのものというよりはむしろそれを支える紙の罫線、すなわち詩にとっての“地面”をつくるような感覚になったそうだ。会場に展示されている怪物君の原稿は凄まじい。
手控えとはいいながら、詩人が綴る文字の重たさ。
しわくちゃになった紙に吸い取られた湿気と赤いインク。無限の自由。
まさに「劇化する詩」(吉増氏)、詩とはいったいなんですか?と問わずにはいられない。
会場で吉増氏は詩を朗読した。ご本人はそれを朗読とは言わないようだが、歌っているとも、唱えているとも、踊っているとも言えないような不思議な律動、区切り、音の大小。生まれてはじめて耳にするようなものであった。朗読の途中で勝手に解説をはじめてしまうのでブツ切りのタコのようになった詩はそれはそれで再生と一時停止を繰り返す緊張感を帯びて、大変スリリングな時間であった。
そんな「声ノマ」、すなわち“声の間”から続く改装現場のような通路の奥に映像の部屋があり、予測不能な展開に正直戸惑った。ある意味美しく完成されたインスタレーションの前室とは真逆の、未完成の、工事中の、言葉になる前のうめきのような、むしろ暴力的でもあるようなラスト。他者の介入によるブツ切りのされ方。(あの人はなぜあんなに悪態をつくのか。)人は老いを意識すると自らのしごとを綺麗にまとめたくなるものだ。自ら枠組みをつくっていくものだ。しかしそこであえて他者と切り結び、決して綺麗には終わらせないところに詩人の本当の自由と抵抗を感じた。