「忍者百人衆 江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ」
三重大学「忍術学」山田雄司教授のガイドで伊賀甲賀ゆかりの史跡を巡る
忍者百人衆 江戸城下探索の巻(その弐)
開催日:平成27年12月6日(日)
主催:伊賀上野観光協会、甲賀市観光協会
行程は上野動物園から始まった。
寝そべるパンダを横目で見ながら通り過ぎ、タイのあづまや(サーラータイ)とゾウの付近にある動物慰霊碑の奥の茂みへと入り、塀越しに藤堂家歴代の墓を眺める(通常非公開)。徳川家康に信頼され、江戸城築城にも大きく貢献した伊予今治藩主の外様大名・藤堂高虎は、後に伊勢・伊賀の藩主となり同地の忍者を支配したといわれる。
没落した家から出た叩き上げの人。家康に出会うまでは仕えるべき主君を何度も変えた。だからこそ家来の気持ちが分かる。家臣には情けをもって接し、一度「この人は」と決めた家康に対しては信仰の宗派を変えて来世までの忠義を誓った。190センチの大きな身体に刻まれた無数の傷あと。明晰な頭脳と大胆な戦いぶり。周囲は変わり者と恐れたかもしれないが、この人こそ無私の正心(正しい心:忍者の第一の心得)に生きた忍者のような人物ではなかっただろうか。
墓所は動物園内の賑わいとは真逆の静けさに包まれていたが、突然の怪しい侵入者を警戒するかのようにどこからともなくたくさんの鴉が舞い降りて石塔を護るべく飛び交った。ここに眠る名武将は我々の姿を見てどのように思われただろうか。騒がしくして申し訳ございません。
茂みを引き返して、猛禽類などを見ながら奥へと進んで行くと高虎が建てた茶室「閑々亭(かんかんてい)」にたどり着く。徳川秀忠・家光が家康を祀る上野東照宮を参拝した時にもてなした場所とのこと。高虎は武術や築城技術のみならず、茶や能にも精通する文化人であり、家光が「武士も風流を嗜むほど世の中が閑になったの」と喜び閑々亭と名付けたという。家光の頃には徳川の権力も揺るぎないものとなり、忍びの活用機会も減っていたとされる。忍者の元締めと言われた高虎の茶室に「閑(ひま)」の字が重ねられたのは喜ばしくも、生き生きと働く場所を失った忍者の心境を思うと複雑でもある。
懸命にカメラのシャッターを切っていたら、鴉が肩に糞を落として阿呆と言った。やはり奇妙な集団を敵として警戒したか、はたまた無遠慮なシューティングをけん制したのであろうか。かさねがさね、誠に申し訳ございません。
一行は動物園を出て、東京国立博物館の東洋館側に走る道を5分ほど歩き、高虎の菩提寺である寛永寺 寒松院へ向かった。高虎は、徳川三代の帰依を受けて現・上野恩賜公園一帯を中心とする広大な敷地に寛永寺を建立(1625年)した天海大僧正とともに、家康を祀る上野東照宮を造営(1627年)。その際、高虎自身の屋敷地を献上しており、さらにその別当寺として建立したのが寒松院である。寺名の由来は、天海僧正が高虎を「寒風に立ち向かう松の木」になぞらえて授けた法名による。家康、高虎、天海僧正の精神的なつながりは建築というかたちで上野の森に残された。
しかし寒松院は戊辰戦争や太平洋戦争などたび重なる戦火により焼失し、現在の人通りの少ない閑静な土地で再建された。そこには高虎のように大きな松が遺されているわけでも、豪華絢爛の装飾が施されているわけでもない。それゆえかえって、常に主君の傍に寄り添って働き、それで心が満たされている重臣の謙虚で静謐な佇まいを表しているようでもある。
実は、東京という土地は忍者と縁が深いのである。徳川家康は本能寺の変(1582年)が起きた際、いわゆる「伊賀越え」によって明智光秀の攻撃という最大の危機を回避した。この時、服部半蔵が集めた伊賀・甲賀忍者の助けがなければ命を落とし、その後の歴史も大きく違っていたことだろう。以降、家康は伊賀・甲賀忍者を重く用いるようになり、彼らに土地を与えて江戸に住まわせている。
戦国の世も現代に劣らぬ情報社会であり、それを手に入れ自在に操作できる者が権力を握った。家康が信頼を寄せる高虎を伊勢伊賀の藩主に据えたのには、全国統治を確立するために忍者の諜報能力を活用した情報支配を重要視していたから、とは言えないだろうか。現・上野公園のあたりには、しのばず(不忍)の池や、忍岡など、忍の一字がつく名称が散見され、徳川家と忍者の密接な関係を今に伝えているように思える。(続く)
(2月26日追記)
わあ、そして遂に、満を持して。
日本科学未来館 1階 企画展示ゾーン
本展は、現代科学の視点から忍者の技術や身体能力、知恵がいかなるものだったのかに迫る企画展です。医学・薬学・食物・天文・気象・火薬・脳科学など忍者の持つ多方面の知恵について、三重大学の学術研究面での協力などを得て、様々な視点からアプローチし解き明かしていきます。
日本科学未来館で、忍者を科学する!!??
先日も忍者の末裔が見つかりましたね。実は意外に近くにいる、、、