例えばインタビューで、事前にある程度相手の方の仕事や著述について知っておくことが大切な場合もあるけれど、中途半端な理解と予定調和の質問に心のシャッターを早々に降ろさせてしまうくらいなら、潔く丸腰で飛び込んでいった方がよっぽど面白い言葉に出会えたりする。まあ相手によるけれど。
あなたは私のために、そして私はあなたのために、貴重な時間を分け合ってこの場にいるわけなのだから、取材する人は相手からできるだけ吸い取ろうなどと欲張らず、あるいはあらかじめこう書いてやろうなどと決めつけず、一期一会の邂逅を味わうくらいのつもりで、その場で自然に起こるやりとりに身をゆだねる方がお互いの人生にとって楽しいのではないか。ま、ま、相手によります。
それは美術に触れる時も同じかと思う。美術館の来場者のなかには、どうも何かを確認作業しているようなそぶりの人がある。新聞広告に載っていたあの絵、美術番組で見たなにか、あるいは誰かがつぶやいていたあれこれなど。作品よりも解説パネルのほうを熱心に読みながら順路を進まれている方もある。
「やっぱり思っていたとおり、あの人が言っていたとおり本物はいい。以上」。もちろんこれはこれで美術の楽しみ方である。人それぞれである。しかし既に与えられた知識や情報を指さし確認するためだけに現場に向かうのだとすれば、なんとなく、少々もったいない作業であるような気がする。
時には「モネを見にきたら、ホドラーという人の絵がすごくよかった」といった発見もあるだろう。その絵が人生を変えてしまうことだって。本当に楽しいことや驚きというのは、たいがい知らなかったことから生まれる。事前にできるだけ何も知らない方がきっとずっと刺激的だ。
というわけで、二度目の大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレである。前回、娘はまだ3歳で地元のサポーターの方に麦茶をごちそうになり「次にくる時は6歳だね」などと話していたものだが、おかげさまで元気に小1になりました。この芸術祭は本当に不思議なお祭りで、当初は美術を見ることがきっかけになるのだが、数日この土地に寝泊まりし、食べたり、過ごすうちにいつの間にか自分たちもこの景色の中に溶け込んでしまい、もうひとつの故郷に帰省してきたような気分になる。
特筆すべきはサポーターの方々のあたたかいもてなしぶりで、作品と作品の間にさしはさまれる皆さんとのささやかな交流が来訪者にとって大切な思い出となる。お風呂屋さんにいたまろやかな雰囲気のおじいさんや、広場でお漬物を振舞ってくれたおじさん、駐車場で声をかけてくれたおばさんの笑顔を忘れないし、きっと3年後も覚えていると思う。地元の人たちとの心の交換こそが替えがたい癒しであり、その喜びを味わいたくてまた出かけるようなところがある。
6つの町をまたぐ広大なエリアに300近くもの作品が点在しているため、効率的に数をおさえるなら事前にガイドブックで行程を決めて周るのがよいだろう。けれど、ガイドブックを見ると作品の概要を知ってしまうことになる。写真で見ちゃって、先述の「指さし確認」のごとき作業になってしまうのは悩ましい。1泊や2泊の限られた滞在時間では到底すべてを見ることはできない。それならばざっくりとした地図だけ片手に適当に町をさまよって、作品の看板を見つけたならなんだか分からないけれど立ち寄ってみる、というくらいのゆるい周り方がいい。
情報と先入観を放棄する。
すると何が起きるか。
なんだか、目にするもの全部、作品に見えてくるのである。
例えば、9月初旬から中旬ならばふっくらと豊かにみのった黄金色の棚田が、もうそれ自体が宝物のような風景画だし、笠を被って一人草刈りの作業をしているおじいさんときたら現代舞踊の小品かと思うようなたたずまいである。過疎のためか空き家になった保育園の建築も風情があるし、その横を素知らぬ顔でゆったりと流れる清津川も、岸辺でいっせいに揺れるススキの穂や茂みからのんびりと出てきて帽子にとまるのんきなバッタも、すべてが素晴らしい。
アーティストによる作品が設置されている家屋の向かいにある、あのなんでもない空き家にも実は何か作品が隠されているのではないか。そう、きっとあるに違いない。とにかく視界に入ったものすべてに対して反応してのけぞっているので、周りの人は「あの人は大丈夫か」と心配されたことであろう。しかし、それは私だけではないはずだ。
凝り固まっていた頭はゆるゆるとなり、息を吹き返した好奇心と想像力が腕白な子供のようにそこら辺を駆けまわる。触ったり、ひっくり返したり、側転したり。心がそんな風に遊び続けてやがて日が暮れて。少しさみしい気持ちでこの町を出発する頃、芸術とはアーティストと関係者だけのものではないという想いに至る。
おひさまが昇り、沈む。時には色々ありながら結局なんでもなく繰り返される今日という日。なんでもない営みのなか、作っては壊し、生きて死ぬというこの世の景色すべてが芸術であり、あなたはもちろん、このなんでもない私ですら、一人ひとりがふたつとないオリジナルの作品なのだと。何も知らない、真っ白な心だけがきっと気づくのだ。
だから大丈夫です。知らなかったために「目」の素晴らしいコインランドリーを見過ごしたとしても、時間がなかったために清津峡の倉庫で野菜のピザを作れなかったとしても。きっとほかの人が気づくことのなかった有形無形の作品をあなたはしっかりと見ているはずだから。