2015年9月26日土曜日

SHUNGA 春画展

少しくらい、はじらうべきだろうか。

芸術的にも歴史的にもそれについて語れないのなら、あえて触れないことが無難だろうか。

美術館や新聞社も取り上げられないのだから、見習って行かなかったフリでもしておいた方が。そこで見たあれやこれを胸にしまって墓場までもっていくくらいの奥ゆかしさが大人の態度というものだろうか。

でも行っちゃったんだもの。

見ちゃったんだもの、あれやこれ。

しかも初日にいそいそと。

SHUNGA 春画展
2015年9月19日(土)~12月23日(水・祝)
永青文庫


永青文庫は初めてである。目白駅からバスに乗って椿山荘前で降りて。緊張しながら5分ほど歩き、静かな住宅街の奥まったところが目的地。都会の小さな森というおもむきで、秘めやかに建っている瀟洒な西洋風のお屋敷が同展の会場である。

館内に敷かれた赤い絨毯が今日はなんだか特別な演出に感じる。すれ違った紳士が連れのご婦人に「いやあ圧巻だったなあ」と半分照れ隠しの笑いを浮かべて声をかけていた。白昼男女で来ちゃうのね。私は無理。愛するダンナ様とでも無理。見ないフリして見るなんて絶対無理。。




はい。

嘘です。

見ました。

両の目玉がっつり刮目、あれやこれ隅の隅まで見てきましたよ。四十過ぎてはじらいなどという単語はいつの間にか辞書から削除されてましたので。街でオジサン化したオバサンを見かけるけれど、間違いなく私もそっちのベクトルだ。仕方がない。骨董市に行けば必死の形相で探すのは男女交合の古き彫刻や張形の土産物やら春画の類である。どれも高価なのでなかなか手は出ないのだが。

そもそも春画や男根崇拝は子孫繁栄、武運長久を祈念する身近な縁起物という位置づけだったのである。江戸時代には大名のお嬢さん方の嫁入り道具(指南書)だったそうだし、春画を家に置いておくと火事にならないとも信じられていたようだ。友人が「春画で自慰できるようになったら相当レベル高い」と言っていたが、これは重要な一言だと思う。なぜならここに展示されている春画は底抜けに陽気な祝祭感と肯定の雰囲気に満ちており、そこで奨励されているのは農耕や工芸などと同じように豊かな生産のドラマとしてのあれやこれ、なのである。

色とりどりの着物の柄と柄が幾重にもみだれ舞うなか、かの生産的なる部分に視線が向かうように朱赤を利かせた葛飾北斎、女性の姿態を四季折々の花に譬えた構成(月岡雪鼎『四季画巻』)など風雅の極み。モノクロ調に描かれた肉筆画『耽溺図断簡』(絵師不詳)はあたかも銀河が形成される瞬間を思わせる壮大な景色である。いずれも絵師の卓越した力量と想像力、「ザ・自由」としか言いようのない諸先輩方のみやびな生き様(同じように死に様も凄かったことだろう)に感嘆敬服するばかりで、どうも現代の一小市民たるおのれごときがエロい気分にはなりにくい。そんなのなんだか申し訳ない。それとも私がオバサンすぎるためだろうか。

こんなこと言ったって「わいせつ的表現」と受け取る方もいらっしゃるでしょうし、さすがに密かに見るべきものでしょうし、法律で言う「羞恥心」「性欲」「性的道義観念」のレベルもまちまちなので然るべき策は必要だ。本展でも18歳以下は入場禁止とし、公立の博物館美術館など多くの人が目にする場所にはなるべく印刷物を掲示しないといった配慮はなされている様子だ。(本展のチラシやポスター、図録の装丁などは実に秀逸で洗練されたデザインであることは強調しておきたい)

でもまあ、「芸術か、わいせつか」なんていう明治維新以降現在まで散々尽くされてきた主観的議論はさておき、もしも少しでも興味関心がおありならまたとない機会なのだから臆さずぜひお出かけになることを勧めたい。はじらいの薄まった熟女が言うので大した説得力はないけれど、少なくとも消極的な気持ちにはならなかった。むしろ「もっと柔軟になってもいいのかしら」くらいには思いましたよ。ふふ。