「こちらは相変わらずです」という挨拶の言葉。控えめで便利な一言だが、それを聞くと私は不思議な安心感を覚えることがある。会わない間に、その人が静かに積み重ねてきた実直な時間が感じられる気がするからだろうか。
日々のあゆみは思いのほか緩慢で、一日一歩進んだのかどうかもよく分からない。めまぐるしく変わっていく情勢や足早に先を急ぐ人々の背中を目の端にとらえながら、「私は私」と今日もまた、昨日と同じことを繰り返す。
短いスパンで考えれば特に変化のない日常に、周囲は「何もできていないじゃないか」とやきもきすることだろう。「一緒にやろうよ」と呼びかけてくれた人もあったが、いつの間にかいなくなっていた。決して非効率なことをしているつもりはないのだが。これが最善の方法だと思うし、これが私に「向いている」と思うからなのだが。
私がやっていることは、誰も満足させていないのではないかと焦ることもある。もっと変わらなければならないのだろうか、もっと、何か、こう、世間の速度や尺度みたいな器に合わせなければならないのだろうか。
しかし、私自身の能力や想いとは違うところで無理をすれば大概失敗に終わり、悲しみしか生まない。そのことを心底思い知るまで、いくつかのうんざりするよ うな後悔を重ねる必要があった。こんなことになるなら遠くを見すぎて無茶したり、周りを見すぎて焦るのはやめよう。今できること、今日できることしかできない。それが未熟なる私というものの器なのだから。
前向きに下(足元)を向くようになった。いつもと同じように私の周りを大量の情報が流れすぎ、時にはあの人がまた大きな仕事をやり遂げたという知らせもあったが、あえて見ざる、聞かざるを貫いた。とっつきにくくなった、と陰口も叩かれただろうが、それも気にしないように努めた。
気づくと、何年か経っていて、私と同じような時間や仕事の感覚をもつ人たちと知り合い、いくつかの仕事も形になっているようだった。ようだった、というのは私にも何が仕事の完成形なのかよくわからないからだ。今でもその仕事は続いているし、そもそもはじめから「これを作ろう」などと計画して取り組んでいるわけではない。人と話をしながら、その人が何を考えているか、何を必要としているか考えながら、キャッチボールをしているだけなのだ。
たまにいいアイデアが浮かんでドストライクを投げることもあるし、間違って相手にぶつけちゃったり、はたまた茂みに飛び込んでなくなってしまったボールもある。そんな風に何年も何年もキャッチボールを続けていたら、ある時その軌跡に何かが生まれ、羽が生えて、世に出て行ったものが「作品」とか「商品」と呼ばれるのである。
正直、できあがったものに執着はそれほどない。守る気もない。あとは誰かがいいようにしてくれたらそれでいい。それよりも、私はこのキャッチボールが好きなのだ。あの人やあの人とのキャッチボールが楽しくて心地良いから、次はもっといい球を投げられるように道具を磨くしフォームも研究する。すべて、これを相も変わらず続けていきたいだけなのだ――。
ごめんなさい。
ここまで書いておいて、これは私の話ではないのである。
私がいいな、と思っている仕事の在り方である。
そして、デザイナーの小泉誠さんの新著「地味のあるデザイン」(六耀社)を読み、頭に浮かんだことなのである。
ご自身三冊目の本になるという。長くお付き合いのある編集者やライターさん、写真家の方とともに、独立以来25年におよぶ活動を丁寧に紹介している。小泉さんにとってデザインとはおよそ机上でパソコン画面とにらみ合う仕事ではない。徳島で二社の家具会社と10数年来続けているワークショップのように、その土地に何度も赴き、そこにしかない景色のなかでじっくりと時間をかけて腹蔵なく語り合い、人間同士の関係を温めていく過程でようやく目鼻がついてくるものだ。
タイトルの「地味(じみ)」は、どちらかといえば消極的な意味合いで用いられることの多い言葉。一方で、「地味(ちみ)」は土地がもつ力のことを指す。農産物が元気に育つ豊かな土地を「地味がよい」「地味が豊か」などというそうだ。よい作物を収穫するためにはまず、よい土を育てることが大切。デザインと同 じくらい、言葉遊びもこよなく愛する小泉さんらしい、読者への問いかけでもある。
一見「地味」な装丁にも、プロダクトデザイナーらしい趣向とメッセージが込められている。