(ネタバレかもしれません、ご覧になる方はご注意ください)
ドキュメンタリ映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』
(Saul Leiter, In No Great Hurry)
11月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
写真は詳しくない。
ニューカラーと言われても、ウィリアム・エグルストンしか知らない。
でも本当に素敵な写真なんだ、ソール・ライターの写真は。
40年代から60年代にかけて撮られたそれらは、このドキュメンタリーの、つまりライター氏へのインタビューのあいだにさしはさまれる。曇って水滴が伝う窓ガラスから見える雨に濡れたニューヨーク。花咲く色とりどりの傘。壁を埋め尽くすロゴマークや広告。およそ旅人の視点ではないし、作品を作ろうと意図して撮った写真でもない。あくまでこの街の一住人として、アッパーよりはロウアー、生活者というよりはまるで野良猫みたいな視点で、せわしげに移り変わってゆく都市を切り取ってきた。
1923年生まれの写真家ソウル・ライターが世界に“再発見”されたのは、2006年に写真集『Early Color』が出版されてから。既に80歳を超えていた。だからこのドキュメンタリーが撮影された時も、「何をいまさら」とばかりカメラには心を許さない。老人は自分のよく知らない男(撮影者であり監督のトーマス・リーチ)の質問に答える。答えはするけれど、謙虚さをわずかに含んだ憎まれ口をたたくことも忘れない。それから軽く咳こむようにクックッと笑いながら自嘲気味に煙に巻いてしまう。
そんな手ごわい老人を優しく包んでいるのは、部屋だ。ロウアーイーストサイドの天井の高いロフト。フェルメールの部屋を思わせる大きな窓からやわらかな自然光が入ってきて、話し方も何もかもマイペースな老人をそっと抱きしめる。また、ときどきカメラは助けを求めるかのようにライターの足元をうろついたり、窓際でひっくり返って眠る猫を映し出す。部屋と老人、ときどき猫。簡単にいえば、70分あまり、ほぼこの構図のままである。
だからといって決して静止画のような映画ではないのでご心配なく。物語らしきものも背後に感じられる。片付けの苦手な老人が、足の踏み場もないほど山積みになったプリントや箱の類をなんとか片付けようと奮闘する、という物語だ。部屋の整理整頓は、自身の人生や記憶を整理することでもある。でも彼にはそれが難しい。面倒くさいのもあるし、正直本当は何も捨てたくないのだ。放っておいてほしい。だから「これはあとで」「これはもう開けなくていい」「これは秘密だ」という具合にのらりくらりと逃れようとする。
それでもアシスタントの手を借りながら片付けは少しずつ進んでゆき、ある日、隣人であり芸術家でもあった女性(故人)からもらった小さなアートピースを発見した時、ライターの表情が初めてかすかな昂ぶりを見せるのを観客はきっと見逃さないだろう。人生は深い。そして80年は重い。でもここから先は書くのをやめておく。
この映画ができてから約1年後の2013年に“偉大な写真家”は亡くなった。あの調子だから、きっと撮影後も片付けはたいしてはかどらなかっただろうな。むしろそうであってほしい。膨大なプリントとフィルムと、住み慣れたこの街の思い出と空気にきっと優しく包まれて。