東京都現代美術館で、展覧会「東京アートミーティングⅥ "TOKYO"-見えない都市を見せる」がはじまった(2016年2月14日まで)。
過去のアートミーティング企画のなかでも、特に意欲的で見ごたえがあって発見も多く、一言で「良い」。「東京」というテーマに取り組めば総花的散逸的となり結果ぼやけるのはわかっているわけで、そこで6人のクリエイターという個々の目線を持ち込んだことが一つのブレークスルーとなっている。本展の主旨や意義については他所で書いたので触れない。そのかわり他所では触れなかった出品作家「目」について書きたい。
「目」は2012年から活動を開始し、昨年の資生堂ギャラリーでの個展「たよりない現実、この世界の在りか」、宇都宮でのバルーンプロジェクト「おじさんの顔が空に浮かぶ日」、今年の越後妻有トリエンナーレ「憶測の成立」(通称:コインランドリー)、水戸芸術館での「REPLICATIONAL SCAPER」などが大きな反響を呼び、作品を発表するたびにその知名度を飛躍的に高めているアートユニットである。
その特徴は、既存の建築や都市空間に大掛かりなインスタレーションを作り込み、鑑賞者に虚と実のあいだを行ったり来たりするような不思議な身体感覚をもたらす作風だ。しかも、会期が終われば装置はすべて撤去されあとかたもなくなる。舞台となった建築や都市の風景だけが何事もなかったかのようにそこに残り、作品があったことすらもやがて曖昧な記憶となっていく。
一方、目の鑑賞者にも特有の計らいというか善意がある。彼らのインスタレーションにはどこかに抜け穴のようなものが潜ませてあり、それに気づいた人だけが“より深く”作品を味わえる仕掛けとなっているのだが、鑑賞者がSNSで感想などを発信する際、極力ネタばれを避ける暗黙の配慮があるようだ。そのため作品の詳細画像や文字情報が流通しにくく、このことも彼らの作品をいっそうミステリアスにしている。
紹介が長くなったが、本展の終盤で圧倒的な存在感を放つ彼らの新作「ワームホールとしての東京」である。ワームホール(虫の穴)とは「時空のある一点から別の離れた一点へと直結するトンネルのような抜け道」とのことだが、簡単にいえば「どこでもドア」みたいなものだろうか。
「浜離宮の風景、360年前からある社とここ10年くらいに建ったばかりの高層ビルが同時にそこにある風景に魅力を感じているわけです。瞬間ってなんだろう。あるいは連続って。“瞬間の連続”という意味では、何億光年も前に消滅した惑星と今ここにいる自分とは連続していることでしかないわけで。今回は、鑑賞者の方が自宅から地続きでこの美術館まで来られる、その連続した行程の一瞬を外に出すような表現を目指した。それが東京のおもしろさの提案になっていればと」(目の南川憲二さん)
で、一鑑賞者たる私も、内田百閒の「東京日記」を読みながらいくつかの地下鉄を乗り継ぎ、深川の街並みを行き、東京都現代美術館に向かったわけである。
百閒の同作は小さな随筆のような、東京の風景描写みたいな文章を23編ほど集めたものだが、ここで描かれているのがまさに「東京のワームホール」。舞台は東京駅や日比谷公会堂、九段下、神田、湯島といったエリアであるが、いつもの見慣れた都市の風景にあらぬことが次々と起きる。例えば、市ヶ谷の景色のなかに噴火する富士山が現れたり、小石川植物園の通りを深夜に裸馬が疾走したり、神田須田町を狼の群れが行く。死んだはずの人が話しかけてきたり、狐の化けた芸妓が人の目玉をぺろぺろ舐めてくる――。
怪談や幻想譚の類にもみえなくないが、百閒はあくまで東京の風景(架空の珍百景?)として淡々と描写している。文中の人物も荒唐無稽な事象を全く意に介さない様子。丸ビルが一日だけ消滅して空き地になってしまったくだりでも、書き手は一瞬目を疑うものの「そんなものか」とあっさり受け入れてしまう。百閒の冷静かつ精密な筆致が読者をワームホールへと引きずり込んでしまうのである。
三島由紀夫はこう評する。「初読後三十年ちかくもなるのに、丸ビルの前をとおるたびに、この作品の、丸ビルのあった辺りの地面に水溜りがあって、あめんぼうが飛んでいた、という描写が思い出され、その記憶の方が本物で、現実の丸ビルのほうが幻像ではないか、と錯覚されることがある。文章の力というのは、要するにそこに帰着する。」(三島由紀夫「<内田百閒>解説」ちくま文庫「サラサーテの盤」より)
これと同じ感覚を私は目の作品に感じるのである。すなわち新潟の古いコインランドリー(「憶測の成立」)でのワームホール的体験が鮮明に焼き付いたあまり、東京に戻ってからもレトロなコインランドリーに遭遇するたびに「仕掛けがあるんじゃないか」と身構えるようになってしまった私のからだよ(責任とってくださいっ)。
今回は浜離宮庭園の、ある意味、超現実的風景(借景)に着想を得たインスタレーションだが、これも「東京ならあり得るかもしれない」と思わせてしまう説得力がある。それはもちろん緻密に作り込まれた作品の力であると同時に、「東京ならあり得る」と思わせてしまうこの都市の不思議な包容力、底力によるところでもあるのだ。
本展において目が突出しているのは、ほかのキュレーターや作家が東京のなかで消費されながら培養されるコンテンツや事象を主にセレクトしたのに対し、目はその孵化装置としての、つまり器としての東京そのもののポテンシャルを取り上げた点にほかならない。とにかく彼らの作品について言えることは「百聞は一見に如かず」。身体全体で東京に潜む不思議なおもしろさを感じとってほしい。帰り道、いつもの風景の見え方が変わるかもしれない。