お金や名声を得るため、他者に評価されるため、歴史に名を刻むため。そうした欲望も多少は創作のモチベーションにはなるだろうが、あからさまにそれらの方が優先順位が高いと見えるものはすぐさま化けの皮が剥がれ、真の感動など生むはずがない。
なぜ「文脈」を気にするのだろう。他人がつくった歴史の流れに乗りたがるのだろう。創造は自身のなかにあるだろうに。誰もが知っている先達の、要は威を借りてだ、誰かが説明文をつけやすいように配慮してさまざまな仕掛けを周到に用意する面倒くさい作業が「美術」と呼ばれるものの正体なのか。だとしたらそんなもの
鑑賞者なんて薄情なものだ。作家の苦労や心労なんか知らないで、勝手に傷ついて、「そんなものはもう見たくない」などとぬかす。そう、この私みたいに。だからなおさらなのだ。誰かに分かってもらおうなんて計画する方が創造のあり方として間違っている。もっとこう、どんなにコントロールしようとしても無駄なくらいの、強烈な業(ごう)に突き動かされてつくらざるを得ない、誰かを犠牲にしたって、これを産み落とさないと己が死んでしまうというくらいの熱量でなければ、はっきり言ってやめた方がいいのではないかな。
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければ到底成功しないことだけは明らかなようであります。何故なればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作が出来なくてただ人に迎えられたい一心で遣る仕事には自己という精神が籠るはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。(夏目漱石「道楽と職業」 講談社学術文庫「私の個人主義」より)
まあそんななか、某所で期待を裏切られて勝手に傷つき、救済を求めて駆け込むように立ち寄ったのが、鴻池朋子さんの個展だった。タイトルからして「根源的暴力」なんだけれど。ひどい代物を見てしまった後だったので、藁にもすがるような思いだった。本当の美術をつくる人に会いたかった。
結論として、鴻池さんは凄かった。
鴻池朋子展「根源的暴力」
会期: 2015年10月24日(土)~2015年11月28日(土)
神奈川県民ホールギャラリー
震災のことがあって、敏感な作家のなかには創作活動を中断してしまった人もいる。鴻池さんもその一人だった。でもそれは表向きにオフィシャルな仕事をいったん休止したということであって、つくること自体をやめたわけではない。根っからのアーティストは、何もしないつもりでも手が勝手に動いている。山に登っていても、違うことを考えていても、何かしらつくることだけは、体内で血が流れるように続いている。人間としての活動は止まれないわけだから、ぼーとしていたって外からの刺激を受けるし、内側では新陳代謝が起きる。考えだって蓄積する。同じ自分ではいられない。
そうするうちに然るべき時がくる。アーティストとしての業はやはりその人に相応しい道を歩ませる。使う材料や主題は変わるかもしれないが、じっと休んでいた分、強力なバネを備えていたので再び飛ぶ時は迷いなく一気に上昇していく。のろのろと歩む凡人たちをあっという間に眼下にして、ひたすら目指すのは宇宙。そこには顔見知りの人などもういないけれど、もはや関係がない。
作家として再生した鴻池さんの新しい作品はつくる喜びに満ちて祝祭的だ。きっと放っておけばどこまでも大きくなっていくことだろう、牛の革をつないだ広大なキャンバスに描かれた世界は、生きることやつくることの根源に踏み込んだ大作である。すなわち、我々は常に誰かを殺し、犠牲にしながらここに在るという残酷な真実。同じように「つくる」ということについても、自然からその一部を切り離し、選り分け、自分へと無理やり引きよせる行為にほかならない。それは誰かのせいでもなく、自分が悪いのでもない。ただ、自分という存在が根源的暴力であるとしたら、そうと知ったなら、これからどのように生き、つくっていくのか。鴻池さんは自ら設定した問いに果敢に立ち向かおうとしている。「考えられるあらゆる材料や方法を使って」、それこそ手当たりしだいに。
子どもが身につける革のポンチョには、動物が描かれる。森の住人たちは澄みきった虹色の目を見開いて、恐れずに我々の世界を凝視する。目、目、目。それは山の火口や湖の奥底にも現れ、自身に向けられる暴力を一瞬でも見逃すまいという強い意志を示すかのようだ。分厚い革は扱いが難しく、身を削るような体力を使うことだろう。しかし苦しみや迷いの色など一切見えない。くっきりと引かれた鮮やかで力強い歓喜の線は、楽園のようでもあるし地獄のようでもあるこの世界の理を闇のなかに浮かびあがらせる。生と死が雪崩れて渦巻く凄まじいスケールの前に吸いこまれそうになって、立ちつくしていたら涙がほとばしり出た。そこに説明できる理由などない。