2015年11月30日月曜日

杉本博司 趣味と芸術-味占郷/今昔三部作

芸術家は、人とは異なる道を選ばざるを得なかった求道者のことである。それゆえ人とは交わらず、どこまでも孤独である。賞賛されても批判されても、すべて彼にとっては川の流れのようである。芸術家は一人岸辺に立ってそれを眺めるだけで、己には縁ないことである。少し休んで荷を背負い、また砂利の道を進むしかないのである。その足跡に彼が拾いあげて戯れた小石が落ちている。後から来た人はその審美眼を讃えることだろう。そして人々がその小石に群がるだろう。しかし既に芸術家はそこにはいない。気配を感じたとしても、もうそこにはいないのだ。


開館20周年記念展杉本博司 趣味と芸術-味占郷/今昔三部作
千葉市美術館
会期 2015年10月28日(水)~12月23日(水・祝)

「人類史の中で精神は時代に宿り、そして芸術は時代精神と同衾した。しかし今、時代は高度資本主義の中で、宿るべき精神の不在、または精神の不在そのものの商品化へと流されつつある。芸術が腐臭を放し始めた昨今、私は趣味の世界へと時代を遡行していくことにした。古の文明が残してくれた遺物を愛しみ、撫でさすり、眺めていると、失ったものの大切さと共に、今の時代が見えてくる。私は我が道を楽しみながら生きて来た。これを道楽と言う。道楽者のアナクロニズム、私はそれ以外に時代を映す術を知らない。杉本博司」(展覧会パネルより)

自らのしていることは道楽である、と言い切る潔さ。重い時代であればこそ、軽みのなかに美を包みこみ、サラリと差し出して、後には晴れやかな微笑みだけが残る。


 本展の後半で紹介されている「床のしつらえ」は、婦人画報の連載「謎の割烹 味占郷」においてゲストに合わせてしつらえた床の間を氏自ら再構成したもの。杉本さんの多彩な蒐集品と須田悦弘さんによる繊細な彫刻をとりあわせた、いわば“小さなインスタレーション”が27件ずらりと並ぶ様子は圧巻だ。


それぞれに客があり、もてなしの時間と完成された空間があったわけだが、こうして再構成された意外なものたちの組み合わせを眺めているだけでも十分おもしろい。床の間や茶席というと和のイメージが強いが、軸にエジプト「死者の書」をかけ、その下に青銅製の猫の棺を置いたものもあって、この時はどんな客が訪れたのか想像してみるのも楽しい。掛軸の先に使われる軸棒の材料や装飾まで徹底的に心を砕き、それでいて最後に一輪の洒落を忘れず、本気の道楽は一周回ってもはや芸術である。

芸術家とか学者とかいうものは、この点において我儘なものであるが、その我儘なために彼らの道において成功する。他の言葉でいうと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵えもしない。至って横着な道楽者であるが既に性質上道楽本位の職業をしているのだからやむを得ないのです。(夏目漱石「道楽と職業」明治44年8月明石において講演)


余談だが、そうした床のひとつに明恵上人像を拝見して驚いた。今年は春から明恵上人ゆかりの品々や絵巻に親しみ、想いが募るあまり高山寺にも詣でた。秋にも京都で御縁を感じる出来事があり、さらにこちらで拝顔の栄に浴するとは思わなかった。特徴的なほくろやまっすぐに引かれた太い眉、道の為に自ら断ち切られた右耳。身体の底に流れる熱い血とは裏腹に、穏やかに先を見つめ今を問うまっすぐな目に心が引き締まる。何もなかったようで色々とあった一年がまもなく暮れる。