銭湯は異界である。
自動のガラス戸がギャーと烈しい音を立てて開くと、そこには開放的な空間が広がっている。早朝のためか客は見当たらず、六角形の空間を二つに分けている壁のむこう側からなにやらぼそぼそと会話する者の声が聞こえただけだった。
前に進もうとすると背後からゆっくりとした低い声が私の首根をとらえた。
「いらっしゃい」
大阪に着いてからはじめて私にかけられた声である。性別ごとに隔てられた空間の間に人ひとり入れる円筒形の見張り台があり、そのなかから小さな老婆が上半身だけ出してこちらを見ていた。
ワンコインセット券を番台の上に置くと、すかさず「石鹸は」と問われたので少しだけ考えてから首を振った。するとそんなことはわかっているとばかり、間髪をいれずに「札を」と老婦人。札。一瞬戸惑ったが、それ以上このばあちゃんを待たせてはならないように思えた。片手で握りしめていた靴入れの木札をすばやく番台の上に置くと、彼はようやく納得した様子であった。菩薩のような面持ちで木札と引き換えにプラスチックの番号札を私に示した。
番号札は小さな鈴とともに赤いヘアゴムに通されていた。木がプラスチックになり漢数字が洋数字に変わっただけだが、当湯屋にとってはおそらく重要な儀式なのである。帰る際には、このプラスチックを再び木に変換する手続きが必要となるであろう。脱衣所をうろうろしていると、浴室側のガラス戸がぬるぬると開き、若い二人組が出てきた。そこでその者たちが向かう脱衣庫から離れたところに陣取り、自分の衣服を手早く始末した。
脱衣所も広かったが、浴室はさらに広かった。いわゆる富士の風呂絵などはなく、大小のタイルによる抽象的な文様が全体的に施されている。上部に穿たれた摺りガラスの窓を通じて明るい朝の光が滞りなく室内に拡散しており、あたかも神の降臨を待つ楽園のようであった。しかしながらアダムとイヴを隔てる壁は脱衣所から浴室内へも伸びており、壁の向こうから知り合いの入院について話し合うアダムたちのしゃがれた声が響いてきた。
一通り身体を清めた後、はてさてと大きな風呂に足先をつけたところあまりにも熱いので吃驚して飛びあがった。冷えた身体を持て余し、その隣にある高濃度炭酸泉と記された小さな風呂に入ることにした。壁には炭酸泉の効能について詳しく書かれていたが内容はほとんど覚えていない。ただ、やたら「皮膚が赤くなる、赤くなる」とあり、それは炭酸によって血流が良くなるためとのことで、試しに腕を見ると本当に赤くなっていたので少々おののいた。これ以上肌が赤くなっては不興なので早々に上がり、露天風呂と書かれた矢印の方へと進んだ。途中に電気風呂なる小さな風呂があった。そこだけ洞窟のように薄暗いので実態が掴めぬまま、なにはともあれ手を突っ込んでみると、突如びりびりと筋肉の奥を嘴でつつかれるような刺激を覚え、吃驚して逃げ出した。
屋外へと飛び出すと、そこにまた風呂があった。近年増築したと思われる露天風呂であった。おそるおそる入ると今度は湯温も丁度よく、肌が赤くなることも、筋肉がびりびりすることもなく、ようやく安心して身を沈めることができた。(続く)