その日は朝早く大阪に着いたので、あらかじめ調べておいた地図を頼りに通天閣まで行ってみることにした。塔の足元にそれはよい雰囲気の銭湯があるという。その名も「新世界ラジウム温泉」である。
通天閣の真下では、観光客とおぼしきアジアの若者たちが色鮮やかな天井画にカメラを向けたり持参のパンなどをほおばるなどして時間を潰していた。彼らが所在なさそうにしているのは通天閣のオープンが午前9時であり、まだ1時間ほどもあるためかと思われる。見渡せば、特に目的はないがあるとすればそこに居ることを目的とする老翁や、自転車で駅へと急ぐ学生風の人、深夜か早朝の勤務を終えた気だるいおかみさん、店の前を掃き清めながら時事問題の感想を述べ合う店主たちがちらほらといるくらいで、新世界の朝は静けさに包まれていた。
さて、私はこの土地のそうした日常の片りんを横目で見やりながら、朝6時から営業しているラジウム温泉の暖簾をくぐった。半円状になった沓脱ぎ場の中央にアフリカ製とおぼしき雄キリンの像がおかれ、3、4メートルはありそうな高い天井にその鼻先をつけていた。人間の目線の高さにちょうど雄キリンの局部があり、客は靴を脱ぎ穿きするたびにそれを視界に入れることになる。私のすぐ後に、おそらく常連の、おそらく一般的な会社勤めではない中年の男性が颯爽と入ってきて、上がり框の上で仁王立ちとなり、はてさてと煙草に火をつけた。男は煙をゆっくりとくゆらせ、その視線は雄キリンの勇壮なる部分へと向いていたが、あまりに日常の景色なので特に意識もしていない様子であった。
一見の客たる私だけが気まずさにかられ、この空間に長居は無用と急いで長靴を脱ぎ、それを仕舞うには小さすぎる庫の扉を力づくで締め、なかなか言うことをきかぬ木札を引き抜いた。券売機で「ワンコインセット」なる入浴料と大小のタオルがセットになった券を贖い、そそくさと更衣場へと続く自動扉のスイッチを早押ししたものである。(続く)