2015年10月16日金曜日

逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし

日常こそ素晴らしい。

巷では「Peeping Life」という脱力アニメが話題になっているようだが、そう、まさに日々の脱力の営みこそ最上のエンターテインメント、というわけだ。

なぜだろう。嘘みたいな本当みたいな事件や想像を絶する事故が多すぎるからだろうか。毎週毎週なにかのイベントがあってハレの日ばかり続いて、少々疲れてしまったのだろうか。で、ちょっと死んだような目で振り返ってみると、どうも身近な生活が意外におもしろいかもしれない、と思えてくる。作為なき人々のなにげないやりとりのなかに、人間の本質みたいなものが垣間見えたりして、深い。日常、きてる。

そんな時代に待望の久隅守景展だ。謎が多くて、色々不遇だったりもする江戸時代の絵師。よく知られているのは国宝「夕顔棚納涼図屏風」だが、実物を見るのは初めてだ。

逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし
サントリー美術館
2015年10月10日(土)~11月29日(日)


初期は狩野派の期待の新星として探幽師匠から可愛がられ、地位を約束されるなど輝かしき絵師道を順調に歩んでいる人だった。でも、同じく絵の道に進んだ息子や娘が“しでかした”こともあって、そのためかお父さん、何かズレちゃったんだな。まあ、アーティストなのでもともとズレてたのかもしれないけれど。お金持ちに頼まれてお手本どおりに鷹だの花だの描いて出世しても、本当はあんまり楽しくなかった、のかもしれない。

いろいろあって自分の意志かどうかはともかく金沢に移ってからは、主に農民の生活を描いた。ビッグメゾンで都会生活に慣れていたから、画題として田園風景がとても珍しく素敵に見えた、のかもしれない。あるいは新天地のパトロンが変わり者だったのかも。

春の種まきから、夏の日の水田をお世話して、やがてくる秋に収穫し、冬には女たちが機織りなどして生計を立てる。一年の人々の暮らしを、六曲一双の屏風にまるで流れるように描いた「四季耕作図」はどこまでものどかで平和で、山の風すら感じられるようで、いつまもで眺めていられる。

遠くから眺めてもゆったりしていいのだけれど、近寄って見るとこれがまた面白い。人物一人ひとりの表情が生き生きしている。それこそ「Peeping Life」みたいなどうでもいいやり取りが聞こえてきそうだ。一生懸命田んぼに水を撒いている二人もいれば、どこかに向かうのか帰りなのか道端で一人、満月を見上げている孤独な男の姿もある。猿使いの芸を楽しみ、忙しい作業の合間に休息を得る家族もあれば、山奥ではキジの親子が羽をバタつかせて何かしている。何してるんだ。

「夕顔棚納涼図屏風」も、守景が金沢にいた頃の作品だという。思っていたより大きく、二曲一隻の紙本墨画淡彩。余白のとりかたが大胆だ。左上には溶けかかったお月さま。右下に、ヒョウタンがたわわに実る棚の下でくつろぐ3人の親子。月が出ているから夜なんだろうけれど、彼らの視線はちょっとその下の遠方に向かっている。祭りの見物ほどはエキサイトしていないようだが、一体何をを眺めているのだろう。蛍とか。

胸板厚めのマッチョな父ちゃんは頬杖をつき、色白の母ちゃんは上半身はだけて、ボク(少年)もちょっと着物が脱げかかっているけれど、よほど暑いのだろう。レジャーシートよろしくゴザの上でごろごろしている様子はとても他人事とは思えず、なんだか親近感がわいてしまって「私も混ぜておくれ」と呼びかけたくなるほどいい感じだ。

そりゃ生活してりゃ毎日大変だし、また戦争あるかもしれないし、悩みも尽きぬだろうけれど。でもほんの束の間こうやって家族水入らずでさ、今この瞬間を平和に生きている幸せを噛みしめるような、そんな時間があったっていいじゃない。ほらご覧、月もきれいだよ。

守景の視線はどこまでも優しい。もしかしたらうらやましかったのかもしれない。あるいは自分が理想とする生活を描いたのか。真実はどうあれ、市井の人々のまるで観音様のように穏やかな表情を眺めていると、「なにげないケの日々こそ一番美しく尊いのではないかね」という波乱に満ちた天才絵師の切実なメッセージがしんと伝わってきそうである。