夜、というよりも明け方に近い時間だった。ベランダに出るとまだ空は暗く、真上には半分ほどの月が出ている。ピークを過ぎた虫の音が弱弱しく、耳に届く。風が吹き、秋がやってくる。
喉が渇いていることに気づき、湯を沸かして茶を淹れた。こんな時間に起きてしまった理由は分からない。なんとなく落ち着かなかった。頭にこびりついた映像の残骸を手繰り寄せる。
それは街の映像だった。はたして街と呼んでよいのか分からない、かつての街のような場所。それなりの高さがありそうな雑草が赴くままぼうぼうに画面を覆っており、その隙間に一軒の家が見えた。廃墟と呼ぶにはまだ新しいような二階建ての家だ。もう少し近づいて見たいと思うがかなわず、ほどなくして画面は切り替わり、また別の路地が映し出された。先ほどのものよりも、住宅地と呼んでもさしつかえなさそうな家並みがあり、道には何も照らさない街灯がぽつんと立っていた。
そんな風にして、会場のモニターは、街、のようなものをいくつか交互に映し出した。画面の上部には現在の時刻が秒単位まで表示されている。この時私は青山にいて美術館でその映像を眺めていた。同じ時刻、同じ国、同じような街。でも画面のこちらとあちらでは決定的に違うことがあった。あちら側は東京電力福島第一原発事故に伴う「帰還困難区域」と呼ばれている場所だった。
街、と見えたものは街として機能していなかった。時間が止まってしまったかのような景色。そこではいったいどんな音がしているのだろう。ぼうぼうの草が風に揺れている。私たちは、そこになぜ人がいないのかを知っている。「見えない」あれから避難するためだ。見えない、のに間違いなくそこにあって、支配しているもの。その支配はいつまで続くか分からない。
その封鎖されたエリアのなかで展覧会が行われているという。特別に許可を得て4か所に10数組の作家による作品が設置された。当然、誰も見ることはできない。立ち入り制限が解除されるまで。
ふと思った。こちらとあちらに境界なんてものはあるのか。風が吹いている。見えない、のだから、それはこちらにだってあるかもしれない。見えない何か、とは、もちろん放射性物質のことでもあるし、きっとそれだけではない。ある時代にはおそらく希望であり、ある時代には放たれた悪魔であり、もっと言えばそれを許した社会のシステムであり、日本の歩みであり、科学技術であり、誰かの商売であり、さまざまな立場や人生であり、心であり、突き詰めれば「コンセプト」なのである。とんでもない展覧会である。
でも、無理に美術と結び付けるのはやめよう。それはプロに任せよう。
「Don't Follow the Wind」Non-Visitor Center
ワタリウム美術館
2015年9月19日[土]-10月18日[日]
見えない
のと、
見ない
は違う。
暗闇のなかで刃先を突き付けられていることを知ったら、私は恐怖しながら懸命に目をこらすだろう。刃の形や大きさを、その向きを想像しようとするだろう。そのイメージは妄想となって恐怖を増大化させるかもしれない。だとしても、手のひらをめいっぱい開き、あらゆる感覚をフル稼働させてなんとかその気配を感じようとするだろう。
私たちは普段、目を閉じている。閉じていても生きていける仕組みができあがっているし、その方が楽だからだ。でももし、その仕組みが壊れているかもしれない、と思ったなら、その目を開く時だ。
もしもここに来て何も「見えない」ことにフラストレーションを感じたのなら、それはきっとひとつのはじまりだ。人間は基本的には見たい生き物だと思う。懸命に見ようとすることで新しい回路ができて、私たちはいつかきっと見る方法を見つけるはずだ。
しかし書いていたら、なんだかまた眠くなってきた。これからやっと一日がはじまるというのに。
東からのぼってくるお日様がこの平和な街をゆっくりと照らす。どこか遠くで起きた犬が吠えている。柔らかい光とともにさまざまなものどもが視界に入ってきて、私はまた心の目を閉じようとしてしまう。おやすみなさい。眠るな、眠っちゃだめだよ、と心の声が言うけどやっぱり聞こえないふりをしていたい。声は私を呼び続ける。眠るな。今すぐ目をあけなよ。いいから目をあけろ、目をあけろ、目をあけろ、目をあけろ・・・・
(追記)
本展では、見えない、ことから派生する、共有(発信)できない、というフラストレーションもあるだろう。誰も見にいくことができない、という制約事項は、それにゆえにすべてを“たいら”にする。
共有の名の下に、情報をもつ人ともらう人のあいだに生じていた格差。例えば、被災地に赴いた人、デモに参加した人、あのフェスやあの芸術祭に出かけた人、すなわち、わざわざリスクを負ってアクションし、現場に身をおいた目撃者とそうでない人のあいだにある温度差。「私は行かなかった(見なかった)」と言うことの小さな後ろめたさ。つまりは境界。
拡散メディアによる共有という善意の(?)文化は一見世界をたいらにしたかのように見えたが、実際には「差」を築き、見た人と見なかった人の間に強いコントラストをもたらした。テキスト化、ピクセル化されない情報はまるで無いも同然だ。誰かが情報を共有すればするほど世界は選り分けられ、いっそう小さく、不自由になっていないか。
だったら共有(取り合い)などさせないように、群衆にボールを投じなければいい。そのかわりに剃刀を手渡そう。「アンダルシアの犬」のように、使い物にならない狭い目を切りひらき、想像という新しい視界をもたらそう。あるいは「盲人書簡」(寺山修司)のように、暗闇でマッチを3本だけ手渡そう。本展においては、カタログやトークなどがマッチにあたるかもしれない。あとは現地で何が起きているか、自分で考えて想像するしかない。イメージしろ。思い描け。それが現実だ。