2015年10月8日木曜日
Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演
16ミリフィルムが3巻分。長さにして3、4百メートルくらいだろうか、黒くて細いテープが会場を横断するようにおかれた2台の映写機のあいだを回り続けている。
2台の映写機は対面する2つの壁に向かって波立つ海面の映像を映し出しているが、フィルムには無数の傷がついているためか緑色や青色っぽい細かなノイズがそれ自体さざ波のように海面にオーバーラップしている。
フィルムはあまりにも長く、映写機からだらりと垂れ下がり、反対側の映写機に引っ張られてカサカサと乾いた音をたてながら蛇のように床をゆっくりと這っていく。うねり、絡まりそうになると、会場のスタッフが駆け寄ってきてほどく。
床はフィルムを摩擦し、次第に傷つけていく。海面の映像はループされるが、新たなノイズが上書きされるため二度と同じ映像にはならない。これは彦坂尚嘉の「アップライト・シー」(1972)という作品だが、空間と時間そしてフィルムという「もの」が即興的に作り出すライブパフォーマンスなのである。
別の作品を見てみよう。
植松奎二の「Earth point project」(1972)は、街などの風景映像が投影されているスクリーンの中央に四角い鏡がとりつけられている。そのためスクリーン上では鏡の部分だけ映像が抜かれているが、振り返ると反対側の壁に鏡が跳ね返した部分の映像が映し出されている。
河口龍夫のプロジェクト(1972、題名不明すみません)は、2台のカメラを横に並べて風景の一部が重なるように国道を撮影したものを、会場では2面のスクリーンの間を離して映写している。そのため画面を横切っていく自動車や歩行者の動きと時間にズレが生じる。これも、映像における時間と空間について問う作品だ。
ほかにも日本現代美術の熱き時代を担ったそうそうたるアーティストたちが総勢16名、「第5回現代の造形 <映像表現 '72>―もの・場・時間・空間―Equivalent Cinema」(京都市美術館大陳列室)という展覧会で文字通り“映像を造形する”ことに挑戦した。時は1972年、今から43年前のことである。
そして現在。
東京国立近代美術館にて、この展覧会を“再演、再生(Re:play)”と称して紹介している。いわば、展覧会の展覧会である。
東京国立近代美術館
Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演
2015.10.6 - 12.13
「Re: play 1972/2015」展では、72年当時の会場構成プランや記録写真などから、各作品の設置位置やスクリーンサイズを割り出し、90%の縮尺で再現。その外周には現存作家による証言映像や資料などを展示し、当時の状況や制作意図についての理解を助ける。一部の作家は亡くなって作品が紛失するなど展示できなかったものもあるが、その場合には当時のスクリーンサイズを点線で示し、記録写真と機材の展示によって雰囲気を補っている。
希少なフィルムおよびスライドの映写機やブラウン管テレビなどを稼働させ、また今や現像サービスのない8ミリフィルムについては、保存のためデジタル化してから複製を試みるなど、東京国立近代美術館フィルムセンターとのタッグによる調査研究の成果としても享受できるだろう。
一方で、本展を70年代の映像作品の回顧であるとか、ノスタルジーや骨董趣味的な企画として見る向きがあるとしたら、それは大きな誤解であることを実際に見て感銘を受けた者として特に伝えておきたいと思う。
企画の動機として、まずフィルム作品の収集・保存という美術館としての本来の使命があったこと。おそらくフィルムセンターの成果として展覧会の開催が望まれたこと。その上で、43年前の京都で行われ、さほど大きな動員ではなく、展評も少なく、協賛だってきっとないに等しかった、簡単にいえば世間的にはスルーされたであろう、この小さくも革新的な展覧会を“再演”の題材として選んだことに本展企画者のコンセプチュアルな姿勢と意欲を感じる。
72年当時、日本のカルチャーが美術に限らず音楽、演劇、文学、マンガなどさまざまなジャンルが混交しあいながら大きなうねりを生み出していたさなか、血気盛んな作家たちがそれらをつなぐ媒介として8ミリやビデオなどの機器に興味を示し、実際に実験的な作品を作りはじめていた。多くの場合、それらが映画や映像作品であったのに対し、<映像表現 '72>は、前身となる展覧会が彫刻展であったことからもわかるように、映像による造形の可能性を目指したものであり、映像機器あるいは撮影という行為自体を解体し、映像表現の本質に踏み込もうとする壮大なインスタレーションだったのである。(当時はインスタレーションなんて言わなかっただろうから、プロジェクション・パフォーマンス(彦坂尚嘉)とか)
会場に足を踏み入れればわかるが、床にはフィルムが散らばり、林立する映写機は音をたてながら様々な方向に映像を投影しており、それらが網目のように交差している。順路などもなく、来場者は意図せず自身の影すらスクリーンに紛れ込ませながら、光と影の森のなかに身を投げだし、映像と戯れるような感覚を味わうことだろう。まさに映像の「もの」「場」「時間」「空間」としての意味を身体全体に問いかけてくるような体験であり、その問いかけは43年経た、デジタルメディアが主流となった現代にも有効なのである。
かさねがさね、企画者が展覧会の再現ではなくあくまで“再演”としたことに、彼らの「現代の我々に何を見せたいか」という未来に向けた高い志を感じとりたい。これこそ国立美術館の仕事であると思うし、やるべきこととやりたいことを貫き通した感じが素人にだってひしと伝わってくる。本展に取り組まれた学芸員ならびに会場設計を担当した建築家、関係者に、一鑑賞者として心から敬意を表したい。ほんとにすごい展覧会です、これは。
ところで余談ではあるが、もし本展に来場されたならば、カタログ(500円)を購入することをお薦めしたい。このカタログも実に凝っていて、当時発行された概ねハガキサイズのカード型のものをそのまま“再演”しているのである。それは、映画のように決められた時間軸と空間のしばりをなくす、という<映像表現 '72>展のコンセプトをカタログにも採用したもので、どのカードから見ても構わないのである(バラバラになるので少々扱いにくいが)。協賛金を集めるためか、大阪の喫茶店や百貨店などの広告カードも入っており、それらも当時の前衛的な雰囲気を知る一助となる。
で、その広告の中に一枚、新京極ピカデリーの成人映画「情欲エロフェッショナル」<カラー作品>なるものが入っている。「むせかえる女体の乱無」「豊満た肉体」「スエーデン式」など誤字と謎の多いコピーや妖艶な画像をしばらく凝視しながら<映像表現 '72>との関連について考察してみたが、結論として「まあ、いろいろ大変だったんだな」との思いを巡らせるに至った。確かにスエーデン式云々も「映像表現 '72」と言えなくもなく、多少議論もあったことと思うが、この刺激的な広告まで徹底して“再演”してくださった関係者一同の心意気に改めて脱帽するものである。