2015年10月28日水曜日

毛利悠子がとまらない

ここ2年くらいだろうか、大型のグループ展で彼女の名を目にしないことはないほどの勢いである。この秋もスパイラルでのグループ展「スペクトラム──いまを見つめ未来を探す」で特別な存在感を見せ、アサヒ・アートスクエアの個展「感覚の観測:《I/O─ある作曲家の部屋》の場合」では、ヨコハマトリエンナーレ2014で発表した作品を再現して“観測して記録に残す”という試みに挑戦(どちらも会期終了)。現在、名古屋の「THE BEGINNINGS」展でも作品が展示されている(第一期の展示は30日で終了)。

《アーバン・マイニング:多島海》(部分)
「スペクトラム──いまを見つめ未来を探す」での展示。LEDの台頭によって役割を失った街路灯をクジラにたとえ、それが廃材(ごみ)とかすかに触れ合うことで、かつて街路灯が照らした都市の記憶のように光る、どこか切ない作品
「感覚の観測:《I/O─ある作曲家の部屋》の場合」(アサヒ・アートスクエア)

ひっぱりだこの理由を考えてみた。まず、当然ながら、ほかに見たことがない種類の表現であるということ。次に、現場ありき、ということ。すなわちどんなスケールや条件のスペースにも対応できる手法であるということだ。例えば、彼女の所属ギャラリーであるwaitingroomのような小さなスペースや、閉館した吉祥寺バウハウスシアターのエントランスのように何かと制限のある空間から、美術館の大展示室まで。毛利作品はたくさんの古物を持ち込み、与えられた空間と対話しながら自在に、即興的にインスタレーションを作り上げることができる。

そして美術の枠におさまらない超領域であるということ。昨年は、パフォーマンスの祭典「フェスティバル/トーキョー」でも出展を果たした。彼女のインスタレーションにおいては「音」が大切な要素となる。センサーを組み込み、複雑な回路でつながった古物のオブジェは楽器としても機能し、来場者が持ち込んだホコリや会場の湿度などの影響を受けて、まったく予想のつかないランダムな音楽を奏でる。インスタレーションであると同時にライブパフォーマンスでもあるということ。二度と同じ瞬間はなく、会期が終了すればすべて解体され、跡形もなくなる。来場した人の記憶にだけ残る音楽と風景。これが毛利作品の最大の特徴と言えるかもしれない。

でも、作家である以上、残したい。国立近代美術館で開催中の「Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演」と同じ問題意識で、一回性のインスタレーションをどう収集保管し、(作家がいなくても)再現展示するのかという課題。それに対する作家側のひとつの態度として、自らインスタレーションの制作過程を記録し、即興的な動きや音の出方を観測してデータ化しようとしたのが先述のアサヒ・アートスクエアでの実践であった。



どのような結果や視点が得られたのか分からないが、なんらかの形でまとめを公表してもらえたらと思う。毛利氏のように「今ここ」だけでなく未来まで視野に入れた制作姿勢というのはインスタレーションやパフォーマンス分野のアーティストにとっても参考になるところがあるのではないだろうか。「いやあ、あの時はすごかった」という第三者の口承と写真だけではやはり次世代の人には伝わらない部分が大きい。デュシャンのように難解なメモだけを残してあえてミステリアスな感じにしておくのも戦術だが、やはり伝説ではなく作品を残したい、という作家としての現実的な欲求(あるいは壮大な野心)にも大いに共感するのである。

話はそれたが、11月14日から横浜のBankART Studio NYKではじまる日産アートアワード2015のファイナリストにも堂々、その名を連ねている毛利さん。これまでの作風イメージを覆すような内容になりそうとのことなので今からとても楽しみである。良い意味で裏切られたい。それから来春2016年3月26日から森美術館で開催される恒例の「六本木クロッシング」にもラインナップされている。しばらく私の毛利ウォッチング行脚も忙しくなりそうだ。



本文とは関係ないが、毛利氏の写真作品「モレモレ東京」を真似して筆者が撮影したもの。「モレモレ東京」シリーズは、地下鉄の構内で漏れまくる水とそこに対する職員の奮闘的創造を激写したもので、なかなか壮絶なインスタレーションと見ることもできる