2015年10月2日金曜日

ニキ・ド・サンファル展

男性にとって父親というものが乗り越えたい存在であるとしたら、
女性にとっての母親もまた然りである。

太陽のように輝き、家庭に君臨する母親を、娘はまぶしく見つめ、愛しながらも憎んできた。なぜこの人はこんなに私に厳しいのだろう。凝り固まった価値観に縛られた気の毒な母親。こんな大人には絶対になりたくない。私だって男性のようにもっと自由に生きたい。女性が社会的に活躍しはじめた時代のなかで、母親に代表される古い女性像こそ、まず最初に乗り越えなければならない壁だった。

やがて少女は成長し、好き勝手に恋をして、結婚して、家庭をもった。そして気づけば、いつの間にか母親と同じような立場に置かれている。かつての倒すべき「敵」と同じような道を平凡かつ単調に歩んでいる。毎日、起きて、家事して、全然言うことをきかない子供らの世話をして。これでよかったんだっけか。なんかもっとこう、何かあったんじゃなかったっけ、ねえ、お母さん。私、今もちろん幸せだけど、すこぶる平和だけど、私の人生って何なんだろう。女っていったい何なんだろう!?

ニキ・ド・サンファル展
国立新美術館
2015年9月18日(金)~12月14日(月)

ニキ・ド・サンファルの作品を眺めていると、女の一生、ということを思う。それぞれに様々な事情があるにせよ、あの頃の少なからぬ少女たちと同じように、ニキもまた母親を愛しながら憎み、定められた女性性に懸命に抵抗していた。

ニキを一躍有名にした60年代の「射撃絵画」では、支持体に埋め込まれたペンキめがけてライフルをぶっ放した。愛くるしい顔立ちに、純白のパンツスーツをまとった細身の身体。銃を構えて的を睨みつける勇ましい姿は、大人の女性になることを拒否して冒険を続ける女版ピーター・パンのようだ。その後、悪趣味なほど無数の小さなオブジェを固めて作ったおどろおどろしいモンスターや女性像のシリーズなど、とにかく自身の足かせと認識したものに対しては攻撃的な態度で粉々に打ち砕こうとした。

女性という生き物は、初潮を迎え、子を産み、その姿と心、そして環境をどんどん変容させていく。自身の出産、あるいは友人の妊娠などを通じて、ニキはこれまで自分が戦いを挑んできた己のなかの「女性」なるものと真正面から対峙することになる。どうしたって、おんな、であることを認めざるを得ない時がくる、というか。もっと嫌な言い方をすれば、表現の上でも、おんな、であることの価値を見出した、というか。

「フェミニズム」を公言しつつも、内心はやっぱりまっぴらごめんだと思っている(たぶん)。なぜって、そう簡単に過去の自分と和解できるわけがない。そんなに人生単純じゃない。でも女として生きていくことを決めたからには、しょうがない、これでやっていかなくちゃあなるまい。むしろ、そんな男前な覚悟が、女神「ナナ」シリーズ以降の、カラフルでたっぷりとして、陽気に伸びあがるようなポーズの大型作品(彼女自身ではないことは明らかだ)に見えてくるような気がする。

お覚悟はよろしくて、とばかり、大きくて、パワフルで、開放的に。男性が怖気づいてしまいそうな存在感と高揚感にあふれた女神像は70年代80年代の、自由と力と消費を実力で謳歌しはじめた女性たちを大いに奮い立たせたことだろう。日本人の支援者である実業家、増田静江氏(Yoko)もきっとその一人。その後、ニキは各国への旅を経て、色、モザイク、反射、といったニキをニキたらしめる要素が固まってきたところで、彼女自身のメタモルフォーゼと理想の女性像を追い求める旅はやっと終わった、終われた、のかもしれない。

<ブッダ>1999年、Yoko 増田静江コレクション
 
男性に対応するものとしての女性ではなく、誰かのせいでもなく、まず自分が、おんな、であることをしっかり受けとめることができた瞬間に女性は本当に強くなれるのかもしれない。私自身はまだまだ未熟だ。いい年して母親とケンカして口をきかなくなるし、男だったらいいのにな!!っていまだに思うし。それでも、最近は昔ほどの拒否感はなくなった。ナナを見て、おんな、っていう不思議で複雑な生き物でもいいのかなって思うようにはなった。のらりくらりと逃げていないで、私もそろそろ覚悟を決めるかなあ。