2015年12月11日金曜日

パリ・リトグラフ工房idemから ―現代アーティスト20人の叫びと囁き

工業製品の工場でも、パン工房でも、陶芸の窯でもいい。

ものが創られる場所、について考える。

仕事の流れや専門的な技術についてはわからなくても、その場所がもっている独特の空気、音、匂い、を私たちはきっと敏感に感じ取る。そして、ものが生まれる現場の厳かなオーラに不思議な高揚感を覚えることだろう。その場所が長い時間を積み重ねてきたのであればなおさらだ。幾世代も使い込まれ、大切に手入れされてきた宝物のような機械や道具たちは、ものづくりの精霊が宿ったかのように生き生きと自分の仕事に没頭する。つくることが楽しくてたまらない、というような様子で。

いや、そこで働く職人や関係者たちにとってはいつもの職場であり、食べるための仕事であり、機械だってその時間がきたから動いているだけなのだけれど。でも、初めてそれを目の当たりにする人にとっては非日常だ。ものが生み出されていくその場所に立つだけで、人間の生き方を再認識させられ、心が洗われる。なんて言ったら大げさだろうか。

そもそも、工場や工房といったものは、技術を秘密にしておく必要もあるだろうし、場合によっては音や匂いも出るし、なかなか公に対して開かれる場所ではない。大抵はとてもパーソナルで奥まった場所にひっそりと佇んでいる。そのためかえって素人にはミステリアスで神秘的な場所に感じられてしまうのだ。「すごい。誰も知らない場所で、こんなにすごいことが起きているなんて!」と、まるで大変な秘密を知ってしまったような気持ちになる。

その感動は、ものづくりや創作に関わる人ならいっそう強く深いことだろう。そしてきっとクリエイティブの本能を刺激されてこう思うに違いない。「私もここで創ってみたい。この場所でしかできない創作に従事してみたい」と。

パリ・リトグラフ工房idemから――現代アーティスト20人の叫びと囁き
「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」
2015年12月5日(土)~2016年2月7日(日)
東京ステーションギャラリー

本展は、パリ・モンパルナスで100年以上の歴史をもつリトグラフ工房「Idem Paris(イデム・パリ)」を舞台に、その場所の魅力、魔力に取り憑かれた現代アーティストたちの版画作品を紹介する展覧会だ。工房と作家の恋愛物語、と言ってもよいかもしれない。何十年も変わらず大きな機械が油やインクの匂いをさせ、軋む音を立てながら、石版に描かれた絵を紙に刷っていくリトグラフ。メディアも技法も精神ですらも、色々なことがデジタル化されていくなかで、なぜアーティストたちは旧い隠れ家のような工房に引き寄せられるのか。展示された130点のリトグラフを眺めていると、なんとなく彼らの“叫びと囁き”が聞こえてきそうである。

本展は原田マハさんの小説『ロマンシエ』と密接にリンクしており、フィクションと現実を交えた企画力が際立つユニークな展覧会でもある。小説は小気味よい疾走感があって、クリエイティブな仕事に携わる人にはホロリとくる場面も。ご興味があれば一読してから会場に向かうとよりいっそう展覧会を楽しめることだろう。

デヴィッド・リンチ「idem paris」より

2015年12月9日水曜日

「忍者百人衆 江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ」(後編)

散歩の続き。

「忍者百人衆 江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ」
三重大学「忍術学」山田雄司教授のガイドで伊賀甲賀ゆかりの史跡を巡る
忍者百人衆 江戸城下探索の巻(その弐)
開催日:平成27年12月6日(日)
主催:伊賀上野観光協会、甲賀市観光協会

寒松院を後にして、黒衣の一行はJR上野駅で一時解散し、各自山手線に乗車した。JR千駄ヶ谷で再集合せよとのこと。途中、JR秋葉原駅で総武線に乗り換えるわけだが、ホームで電車を待つ忍者集団は客観的に見ても現実離れした光景であった。

本人たちは既に自分の姿に慣れてしまい、しかも出発してから2時間以上も歩き続けていたため、車中では至って大人しく、口数も少ない。周囲の乗客は新しいデモあるいは広告の形態かと訝しみ、「あれ日本人かしら」「いえ中国人よ」といった囁きも聞こえたが、基本関わりあいにはなるまいという様子である。手すりにもたれるお疲れ忍者に席を譲ろうなどという奇特な者などあるはずもない。実際、目の前に腰掛けるうら若き女性は忍者を完全無視すべく、対処法としてポーチより鏡を取り出して化粧を始めるのであった。一行はもはや空気と化していた。
(問)忍者はほんとに消えることができたのですか?
忍者が巻物を銜(くわ)えて印を結び、煙の中にきえる錦絵をよく目にすることがあります。でも、忍者が透明人間になることはありません。それは、視線を一瞬ちがうものに誘導し、人の心理のあるいは視覚の一瞬のスキをついて、さも消えたように見せたのです。
忍術の極意の一つは、「嘘」をさも「真実」に見せる、逆に「真実」を「嘘」にみせることなのです。
(伊賀流忍者博物館のホームページより)





さて。

JR千駄ヶ谷駅で再集合した一行は一列になって歩道を進み、5分ほどで鳩森八幡宮に到着した。
こちらの境内に甲賀忍者ゆかりの甲賀稲荷神社が合祀されている。三重大の山田教授が配布してくださった資料の古地図によると、甲賀衆は現在の神宮球場や国立競技場付近に組屋敷をもらって住み、隣接する御鉄砲場で演習をしていた。甲賀稲荷神社もそのあたりにあったが、明治時代になって青山練兵場を設置するため鳩森八幡宮に移されたのである。現在、甲賀忍者の末裔である遠藤宗家も鳩森八幡宮の氏子大惣代(信者の代表)を務めている。





ところで鳩森八幡宮には富士塚という溶岩を積みあげてできた小山があり、これを登ると富士山登頂と同じ御利益が得られるとのことである。山頂には浅間神社の奥宮、山麓には里宮が配されるなどミニチュア富士山が再現されており、忍者たちは嬉々として富士山に挑み、3分ほどで登頂を成功させていた。



鳩森神社では特製のおにぎり弁当(伊賀・甲賀は琵琶湖由来の土により米が旨い)に加え、地元商店会の御厚意による温かい豚汁やつきたて餅の振舞いを心ゆくまで堪能した。英気を養って再び歩きだし、“お化けトンネル”で知られる仙寿院下を通過、外苑西通りを渡って古地図に「青山甲賀衆百人組」と記された拝領地付近(国立競技場あたり)を眺めながら、大勢の人でごった返す秩父宮ラグビー場を背にして青山高校脇の小道から青山熊野神社へと向かった。このあたりまでくると、気力だけで皆について行っているようなところがあり、不謹慎にも汁粉が食べたいなどと思ううちに山田教授の解説をすっかり拝聴しそびれたが、要は伊賀衆との関連が深い場所とのことであった。





その後、ルートは人通りの多いエリアへと入ってゆく。ザ・表参道である。お洒落に着飾った若者たちの好奇の視線に曝されながら渋谷川暗渠(キャットストリート)をひたすら直進し、表参道を横断した後再び渋谷川暗渠を進む。ラルフローレン デニム&サプライのところの小道を入って突き当りの坂を登ってゆくと右手に伊賀忍者ゆかりの穏田(おんでん)神社がある。本日のクライマックスを迎えたわけである。

日本有数の観光地でありファッション聖地であるこの一帯はかつて穏田村と呼ばれ、江戸に移住してきた伊賀忍者が暮らす場所だった。穏田神社は明治に改称されたもので、古地図には「第六天社」と記されている。第六天、すなわち魔王を祀る神社であったということだ。魔王ではあるが日本神話においては完璧を意味する神であり、美や芸事を司る。忍者の源流ともいわれる修験道で信奉されたことから、伊賀衆が暮らす村の鎮守として祀られたのも自然なことであっただろう。





穏田という名の通り、渋谷川(穏田川)に水車がかけられ美しい田園風景が広がっていたそうだ。葛飾北斎も富嶽三十六景のなかで景勝地として描いており、伊賀衆も普段は耕作などして平和に暮らしていたのかもしれない。最先端ファッションの街がかつて忍びの村だったとは驚きの事実である。どれほどの手柄を立てても影の存在として人知れず生きのびることを定められた者たちは、現代のこの地に溢れる“忍ばない”美徳をどのように見守っておられるのだろうか。

歴史は本当に面白い。壮大な時間の流れのなかで幾度となく上書きされた土地の上に立ち、今を生きていることの不思議さ。傍から見れば、間違いなく怪しげな趣味趣向の集団と映ったことだろうが、当の本人たちはそれなりに真面目なことを考え、目に涙すら浮かべながら約10キロの道のりを歩いていたというわけなのである。(終)






(2月26日追記)

わあ、そして遂に、満を持して。




2016年7月2日(土)~10月10日(月・祝)
日本科学未来館 1階 企画展示ゾーン

本 展は、現代科学の視点から忍者の技術や身体能力、知恵がいかなるものだったのかに迫る企画展です。医学・薬学・食物・天文・気象・火薬・脳科学など忍者の 持つ多方面の知恵について、三重大学の学術研究面での協力などを得て、様々な視点からアプローチし解き明かしていきます。

日本科学未来館で、忍者を科学する!!??

忍者って凄いんだよ、、ダイエットにもなるんだよ。。



2015年12月8日火曜日

「忍者百人衆 江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ」(前編)

師走のとある休日、東京を歩いた。

「忍者百人衆 江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ」
三重大学「忍術学」山田雄司教授のガイドで伊賀甲賀ゆかりの史跡を巡る
忍者百人衆 江戸城下探索の巻(その弐)
開催日:平成27年12月6日(日)
主催:伊賀上野観光協会、甲賀市観光協会






行程は上野動物園から始まった。

寝そべるパンダを横目で見ながら通り過ぎ、タイのあづまや(サーラータイ)とゾウの付近にある動物慰霊碑の奥の茂みへと入り、塀越しに藤堂家歴代の墓を眺める(通常非公開)。徳川家康に信頼され、江戸城築城にも大きく貢献した伊予今治藩主の外様大名・藤堂高虎は、後に伊勢・伊賀の藩主となり同地の忍者を支配したといわれる。




没落した家から出た叩き上げの人。家康に出会うまでは仕えるべき主君を何度も変えた。だからこそ家来の気持ちが分かる。家臣には情けをもって接し、一度「この人は」と決めた家康に対しては信仰の宗派を変えて来世までの忠義を誓った。190センチの大きな身体に刻まれた無数の傷あと。明晰な頭脳と大胆な戦いぶり。周囲は変わり者と恐れたかもしれないが、この人こそ無私の正心(正しい心:忍者の第一の心得)に生きた忍者のような人物ではなかっただろうか。

墓所は動物園内の賑わいとは真逆の静けさに包まれていたが、突然の怪しい侵入者を警戒するかのようにどこからともなくたくさんの鴉が舞い降りて石塔を護るべく飛び交った。ここに眠る名武将は我々の姿を見てどのように思われただろうか。騒がしくして申し訳ございません。

茂みを引き返して、猛禽類などを見ながら奥へと進んで行くと高虎が建てた茶室「閑々亭(かんかんてい)」にたどり着く。徳川秀忠・家光が家康を祀る上野東照宮を参拝した時にもてなした場所とのこと。高虎は武術や築城技術のみならず、茶や能にも精通する文化人であり、家光が「武士も風流を嗜むほど世の中が閑になったの」と喜び閑々亭と名付けたという。家光の頃には徳川の権力も揺るぎないものとなり、忍びの活用機会も減っていたとされる。忍者の元締めと言われた高虎の茶室に「閑(ひま)」の字が重ねられたのは喜ばしくも、生き生きと働く場所を失った忍者の心境を思うと複雑でもある。



懸命にカメラのシャッターを切っていたら、鴉が肩に糞を落として阿呆と言った。やはり奇妙な集団を敵として警戒したか、はたまた無遠慮なシューティングをけん制したのであろうか。かさねがさね、誠に申し訳ございません。

一行は動物園を出て、東京国立博物館の東洋館側に走る道を5分ほど歩き、高虎の菩提寺である寛永寺 寒松院へ向かった。高虎は、徳川三代の帰依を受けて現・上野恩賜公園一帯を中心とする広大な敷地に寛永寺を建立(1625年)した天海大僧正とともに、家康を祀る上野東照宮を造営(1627年)。その際、高虎自身の屋敷地を献上しており、さらにその別当寺として建立したのが寒松院である。寺名の由来は、天海僧正が高虎を「寒風に立ち向かう松の木」になぞらえて授けた法名による。家康、高虎、天海僧正の精神的なつながりは建築というかたちで上野の森に残された。



しかし寒松院は戊辰戦争や太平洋戦争などたび重なる戦火により焼失し、現在の人通りの少ない閑静な土地で再建された。そこには高虎のように大きな松が遺されているわけでも、豪華絢爛の装飾が施されているわけでもない。それゆえかえって、常に主君の傍に寄り添って働き、それで心が満たされている重臣の謙虚で静謐な佇まいを表しているようでもある。

実は、東京という土地は忍者と縁が深いのである。徳川家康は本能寺の変(1582年)が起きた際、いわゆる「伊賀越え」によって明智光秀の攻撃という最大の危機を回避した。この時、服部半蔵が集めた伊賀・甲賀忍者の助けがなければ命を落とし、その後の歴史も大きく違っていたことだろう。以降、家康は伊賀・甲賀忍者を重く用いるようになり、彼らに土地を与えて江戸に住まわせている。

戦国の世も現代に劣らぬ情報社会であり、それを手に入れ自在に操作できる者が権力を握った。家康が信頼を寄せる高虎を伊勢伊賀の藩主に据えたのには、全国統治を確立するために忍者の諜報能力を活用した情報支配を重要視していたから、とは言えないだろうか。現・上野公園のあたりには、しのばず(不忍)の池や、忍岡など、忍の一字がつく名称が散見され、徳川家と忍者の密接な関係を今に伝えているように思える。(続く)





(2月26日追記)

わあ、そして遂に、満を持して。




2016年7月2日(土)~10月10日(月・祝)
日本科学未来館 1階 企画展示ゾーン

本展は、現代科学の視点から忍者の技術や身体能力、知恵がいかなるものだったのかに迫る企画展です。医学・薬学・食物・天文・気象・火薬・脳科学など忍者の持つ多方面の知恵について、三重大学の学術研究面での協力などを得て、様々な視点からアプローチし解き明かしていきます。

日本科学未来館で、忍者を科学する!!??


先日も忍者の末裔が見つかりましたね。実は意外に近くにいる、、、





2015年12月2日水曜日

今日の侘び錆び

青山ベルコモンズ




廣江友和展 / ローラン・グラッソ展

技法に関する話題をふたつ。手短に。


Hellish Toy Story -地獄草紙より-
廣江友和 / Tomokazu Hiroe
2015. 11.20(金) - 12.5(土)
MEGUMI OGITA GALLERY 東京都中央区銀座2-16-12銀座大塚ビルB1

"uneasy hellfire" 2012-2013, 260.6 x 324cm, oil on canvas mounted on board

4枚組の大作「uneasy hellfire」(2012-2013)は、12世紀の絵巻物「地獄草紙」の東京国立博物館本(安住院本)のうち「雲火霧地獄」の火炎に着想を得ているとわかる。しかしその技法は、ルーベンスの第2フランドル技法(17世紀)による地塗り(キャンバスと非吸収性地)と下塗り(油絵具)を施した上に、火炎およびそのなかで倒れるぬいぐるみを油彩で精細に描き、仕上げにはニスの代わりにビニールをかけてコーティングするという複雑なプロセスを経る。西洋の古典技法や現代の工業製品をレイヤードすることで、主題である日本絵画の平面性を追求するという意欲的な取り組みとなっている。





「Soleil Noir」 ローラン・グラッソ展
2015. 11.11(水) - 2016.1.31(日)
銀座メゾンエルメス

Studies into the Past(過去についてのスタディ) カンヴァスに油彩、金箔 各2060 x 1300 x 320mm
フランス人のローラン・グラッソは、歴史資料やリサーチを通じて主に超常現象や言い伝えなどを抽出して独自の世界観を作り上げるアーティスト。史実に基づくというよりは、むしろ史実をねつ造するという魅惑的な活動を行っている。今回は日本各地の伝承などを調査し、日本の屏風・襖絵といった絵画鑑賞の形態にもインスピレーションを受けながら、さながら架空の考古学者のコレクションを眺めるような神秘的な空間を作り上げた。

多様なメディアを用いて構成されているが、その中には15世紀のフランドル技法を採用した絵画もある。日本の或る地域の遺構にまつわる言い伝えの場面を描いたものだが、技法も遠近法も西洋絵画のそれであり、「2つの異なる時間が衝突」するような奇妙な感覚にとらわれる。