2016年6月13日月曜日

ポンピドゥー・センター傑作展

東京都美術館で開催中の「ポンピドゥー・センター傑作展」がよかったのでとりいそぎ一筆。

2016年6月11日(土) ─ 2016年9月22日(木・祝)
東京都美術館 企画展示室
www.pompi.jp

美術展に何を求めるか、という話である。

よく言われることだが、美術館で大きな動員を記録するのはだいたい印象派と国宝である。人々がなぜこの2つに引き寄せられるのかは分からないが、「支払った入場料に見合うお墨付きの美を確認してくる趣味」であることも1つだろう。まあ安定のレジャーであります。

一方で近頃は美術館の展示に慣れた人も多い。もっと知らない世界に飛び込みたい、未知の驚きに出会いたい、という人も増えてきた。本展はそんな冒険心を抱いたアート好きの皆様にオススメである。

パリのポンピドゥー・センターが有する約11万点というコレクションのなかから1906年から1977年(開館した年)まで、1年につき1作品を選んで時系列で紹介するというユニークな趣向。絵画、彫刻、写真、映像、家具など幅広い分野からフランスで活躍したクリエイターが集い、フランス近現代美術史のエッセンスをテンポよく眺めていくような展覧会だ。

なぜこの年はこの作品なのか、といったラインナップの根拠についてはあまり触れなくていいと思う。セレクトショップに行って「なぜこれを選んだのか」といちいち訝しむ人はいないだろう。それよりは、美術のプロ・目利きが選んだ作品作家との出会いに素直に身を委ねるのが本展の楽しみ方。

副題には「ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで」とあるが、それ以外のほとんどの作家の名前は私にとっては初耳で、知られざるアウトサイダーな人も多く、かなりマニアック!という印象。「こんな人いたんだ」「こんな作品見たことない」の連続。初めて美術館にやって来た子どものような感覚で未知のアートと遭遇できるのが新鮮だ。作家の氏名に添えられた“語録”もまた鑑賞者の好奇心をサポートしてくれるだろう。

そんな鑑賞体験を支えるのが、パリ拠点の建築家、田根剛さんによる会場構成だ。3フロア構成という同館独特の構造を活かし、フロアごとに展示スタイルをダイナミックに変えている。特に企画展ではあまり見たことのない展示壁の使い方によって、鑑賞者の身体と作品の関係性がおもしろいことになっている。
これからご覧になる方のために詳しくは書かないけれど、今まで多くの絵画展において横方向にカニ歩きさせられていた鑑賞者がここではまったく違う動き方をしているのだ。これは展示壁を平面ではなく構造物ととらえた建築家ならではの発想。「制約(しばり)」をクリエイティブな方法で「見どころ」へと転換していく田根氏の手腕もまた、本展の重要な作品(インスタレーション)ととらえたい。



さて、そんなことを書いていたら、6月17日(金)・24日(金)の夜間開室時間帯(18:00~20:00)には「フライデー撮影ナイト」を開催するとのリリースが飛び込んできた。
都美の特別展としては初の試みで一部の作品が撮影可能になるそう(実施場所は1階のカンディンスキー『30』前)。国内の美術館でカンディンスキーが撮影OKになっていたことはないと思うし、併せてこの新鮮な展示壁を撮れる(展示風景を撮れるのかは不明)という点においても貴重な機会だ。




2016年6月8日水曜日

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展

2016年6月7日(火)~2016年8月7日(日)
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー

詩人の展覧会と聞いて内覧会に駆けつけた人は多かった。美術館でいったい何を見せるというのだろう。感じたことを書き留める。

・原稿やメモ帳の文字は極小の米粒
・会場は暗い、静寂
・壁、台、床、天井へと視線は無尽に宙を遊び、
・透ける布の先で人が動く
・頭上から声が降り注いでくる
・意味はおそらく、いらない
・声を空間のなかに埋め込むという作業
・詩とは何か

要するに、読解することも、聞き取りすることもままならず。
何か理解して共有した気になる安易さを放棄せよ。
ぼんやりと薄暗い空間のなかで、詩人のイメージの海に溺れる。

画家にとってのイメージがビジュアルのかたちをとるとしたら、
詩人にとってのイメージは音、声のかたちをとる。

そのイメージとは、
あるときは写真化された「声」
あるときは銅版化された「声」
原稿にびっしりと書き込まれた「声」
すなわち「声」。

カセットテープ「声ノート」

企画を担当した保坂健二朗氏によると、
近代美術において詩が果たした役割を見逃すことはできず、芸術家のクリエーションの立ち上がり時におけるポエジーのピュアな在り方を抽出して見せるということは近代美術館にとっては1つの試みである、というようなことであった。ピュアネス。
吉増氏の自宅に保管されていた千数百本にもおよぶ声ノート(カセットテープ)には自身のメモ代わりの声や朗読などが記録されていて、これを託された時に「声を主体とする」という展覧会の方向性が定まったそうだ。

よく見れば、写真や映像は多重音声のようなイメージのコラージュになっているし、日記や原稿は独特の楽譜のように音の抑揚を示しているように見える。帯のように長く伸ばされた銅板において重要なのはそこに何が刻まれているかではなく、むしろ言葉(声)を打刻する際に生じる音だ。吉増氏にとってメディアとは、詩人の声を写しとり、見えない声をあぶり出す装置のようである。




保坂氏からマイクを託された吉増氏はその両耳をヘッドホンで覆っていた。自分の音声を聞きながら話すのだという。「誰にでも異常なところがある。自分の場合は聴覚に頼るタイプであるということだ」。

吉増氏は京都で空海の書、「手控え」と呼ばれるメモ書きのようなものを見た時、その自由さ、呼吸が全部伝わってくるような気がしたという。日常のしごと、すなわち発表を前提としない「カジュアリティ」のなかにあるいきいきとした空気。その「やわらかなたましい」こそ、今の時代に回復していかなければならないのではないか。そういうことを展覧会の準備中に考えたという。

本展は、文学としての詩の分析ではなく、吉増氏の「手控え」的なエレメントを並べた7つの部屋から成る。それらは薄い布によるゆるやかな境界を得て影響し合い、保坂氏が「クリエイションの立ち上がり」と説明したような、作品が生まれる前の渦のようなインスタレーションとなっている。そしてそこは声や言葉に満ちていながら、とても静かで厳かな印象だ。



3.11の翌年から吉増氏は「怪物君」というタイトルの詩を書きはじめた。「言語それ自体が透視力をもつようになるまで、音と言葉のあいだの妖精みたいな奴をとっつかまえる、ような作業だった」。
敬愛する吉本隆明氏の詩を書き写し自らの身体に取り入れた。吉本氏の詩に「全生活・全領域に対する配慮」を感じとり、詩そのものというよりはむしろそれを支える紙の罫線、すなわち詩にとっての“地面”をつくるような感覚になったそうだ。会場に展示されている怪物君の原稿は凄まじい。
手控えとはいいながら、詩人が綴る文字の重たさ。
しわくちゃになった紙に吸い取られた湿気と赤いインク。無限の自由。
まさに「劇化する詩」(吉増氏)、詩とはいったいなんですか?と問わずにはいられない。





会場で吉増氏は詩を朗読した。ご本人はそれを朗読とは言わないようだが、歌っているとも、唱えているとも、踊っているとも言えないような不思議な律動、区切り、音の大小。生まれてはじめて耳にするようなものであった。朗読の途中で勝手に解説をはじめてしまうのでブツ切りのタコのようになった詩はそれはそれで再生と一時停止を繰り返す緊張感を帯びて、大変スリリングな時間であった。


そんな「声ノマ」、すなわち“声の間”から続く改装現場のような通路の奥に映像の部屋があり、予測不能な展開に正直戸惑った。ある意味美しく完成されたインスタレーションの前室とは真逆の、未完成の、工事中の、言葉になる前のうめきのような、むしろ暴力的でもあるようなラスト。他者の介入によるブツ切りのされ方。(あの人はなぜあんなに悪態をつくのか。)人は老いを意識すると自らのしごとを綺麗にまとめたくなるものだ。自ら枠組みをつくっていくものだ。しかしそこであえて他者と切り結び、決して綺麗には終わらせないところに詩人の本当の自由と抵抗を感じた。




2016年6月3日金曜日

和菓子屋「一幸庵」幻の作品集、待望の一般発売

和菓子職人の水上力さんの本「IKKOAN」が6月下旬に青幻舎から新装出版されるとのこと。




これまでテレビや新聞でも紹介されてきたからご存知の方も多いかもしれない。
和菓子の世界ではどちらかといえば先鋭的な動き、既存の概念を軽やかに超えてゆく才気と技術、そして何よりもピュアな感性を持ち合わせた和菓子の芸術家。そんな水上力氏は、むしろ海外のパティシエやシェフたちから熱い視線を集めている。



眺めて美しく、楊枝を入れれば驚きがあり、口に含むと「ああ、おいしい」と心がすっと安らぐような日本のお菓子。水上氏は「お茶がおいしくなるお菓子であること」を第一義とし、伝統の心を重んじる。伝統あってこその先進だという。


2015年クラウドファウンディングによって書籍化された「IKKOAN」は好評で増刷されるも未だ入手困難となっていた。日本の季節の繊細な移り変わりを表す暦「七十二候」に沿って一つずつ丁寧につくりおろされた見事なお菓子のビジュアルと、水上氏による言葉が日本語、英語、フランス語というトリリンガルでまとめられた本は、まさに世界が求めていた一冊だった。今回、海外販路をもつ青幻舎から改めて新装版として出されるということは、今後求める人の元へと安定的に届く仕組みができるということ。大変喜ばしいことである。

茶巾で絞って、水上さんが広げた手のひらのなかに可憐な菊がほころびた。
そんなライブ感のある美しい写真。


ところで発端となったクラウドファウンディングや各所の取材や講演のマネジメント、そして今回の新装版に至る道筋を切り拓いた人物がいる。ここで「仕掛ける」という言葉は使いたくない。戦術や罠を想起させる用語に聞こえるからだ。私はかつて水上氏に取材する機会を得て、事前にその人物に話を聞かせてもらった。あまりに熱心な語り口にやや圧倒されていると、その人は「水上さんのファンなんです、ただし熱烈な」と言った。

ご実家が東京・小石川の一幸庵のそばにあり、幼少の頃から母親に連れられて店に足繁く運んだのだという。一幸庵の菓子を食べて育った少年はいつしか大人になって社会人に、広告の世界に足を踏み入れた。いくつかの偶然や再会が重なり、出版計画のきっかけは本当に些細な、それこそ思いつきに近い“衝動”だったと振り返る。しかしその“衝動”を支えていたのは幼少期の繊細な五感に刻まれた鮮烈な記憶であり、その後のすべてが一冊の本に向かってつながっていったのだ。

「何か卓越した技術や経験があるわけではない。僕には想いしかありません」

謙遜してそう話す。しかしながらその想いこそが、既存のシステムや閉塞感を乗り越えていく。あっ、熱苦しい話でごめん。でも実際そうなんだから仕方がない。斜に構えることなどできない。例えばバレーボールなどオリンピックのための予選など見ていると、24対23であと1点で勝負が決まるというような状況では、技術や能力が五分五分ならあとは気持ちだけの問題というような気がする。どれだけオリンピックに行きたいかという想いの差でしかないような気がする。そして、そういう局面ってスポーツだけではないような気がするのだ。

人生って、どうしたってやらなきゃいけない時ってありますよね。
なぜそれが自分なのかわからないけれど、どうしても自分がやらにゃならんという時が。厳しい戦いなのは明らかなわけで、一人突っ込んで行ったって到底歯が立たない、相手にもされない。周りは「どうせ負ける勝負なのに」「ばかだね、あいつ」と憐れみながら嗤っている。孤独。敵の反応に一喜一憂して「こんなことやらなければもっと楽に生きられるのに」と囁くもう一人の自分。でも何かに突き動かされている。残りの人生かけてもやりたいと思う。だって俺が見つけたんだ、私が感動したんだ。だからこの感動を誰かに伝えなくちゃ。そのためならどんな方法だって厭わないし、泥の中だって這いまわるさ。
強い想いと足掻きが少しずつ厚い氷の壁を溶かしていく。やがて氷の先に協力してくれそうな人の姿がぼんやりと現れる。そこに向かって必死に壁を叩く。最初はダメでも、もう一回叩く。もう一回。もう一回。手に血が滲む。心が痛む。でも叩き続ける。
そうこうするうちにやがて誰かに何かが届く。受け取った誰かからまた別の誰かへ。想いの連鎖ができていって、あるしきい値を超えた時に一気に伝播していくイメージをひたすら持ち続ける。不可能の扉をあけ放つ日がくるまでそれだけを信じる。あとは孤独。
そんな祈るような想いを胸に抱き締めながらたぎらせながら歩いている人、一体この晴れた空の下に何人いるのだろう。



さて、水上氏とかつての和菓子少年の話には続きがある。

彼らにはもうひとつ叶えなければならない夢があるのだ。新装出版も一つの通過点。しかし彼らの最終的な夢を叶えるためには、絶対になくてはならない通過点である。近頃はそんな二人三脚の夢を見守る人が増えてきているのか、「“想い”だけでも結構遠くへいけるようです」と手応えを感じている様子が頼もしい。一歩、一歩、歩み続ける。不可能の扉をあけ放つ日がくるまで。



「IKKOAN」
クリエイティブディレクション・企画編集 南木隆助
アートディレクション 川腰和徳
フォトグラファー 堀内 誠
プロデューサー 佐藤勇太
フォトレタッチャー 山田陽平
デザイン 入澤都美
仏文訳 セシル・ササキ
英文訳 メアリーベス・ウェルチ