2016年4月28日木曜日

マーティン・バースの新作展「New! Newer! Newest!」


今年ミラノを取材したジャーナリストから教えていただいた、マーティン・バース(Maarten Baas)の新作展「New! Newer! Newest!」について。調べてみるとやっぱりおもしろい。

華やかで豪勢な見本市会場からはだいぶ離れた町の片隅で、一匹狼的にものづくりの意味を問いかけつづけてきたバース。時にはデザイン界に対して批評的な視点を含むコンセプトも、ユーモラスなかたちや仕掛けをまとわせることでふんわりと笑顔のなかに包み込んでしまう。辛さとゆるさの絶妙なバランスがマーティン・バース。

今年はついに、“もの”ではなく“未来”をデザインしてみせた。バースの“新作”は200年かけないとつくれない。だから今はない。でも200年後、みんながこの世からとっくにいなくなって、デザインなんて言葉すらなくなっているかもしれない時に、太古21世紀の“新作”が目を覚ます。

ミラノでは新作以外には見向きもしないメディアやバイヤー、デザイン関係者。そんな彼らから「今年の新作はどれ?どれ?どれ?」と聞かれまくる出展デザイナーたち。お互い仕事だから仕方ないんだけれど、本当にそれでいいんだっけ。もうちょっとゆっくりできないんだっけ。今年で55回目というミラノサローネに向けて放った痛快な一撃、異才マーティン・バースならではの「新しさ」とは。

(以下、プレスリリースをだいたい意訳してみました)


「ワッツ・ニュー?!どれ、どれ?どれが新しいの、どれが最新?!」

(展示会で)こういった質問がひじょうにしばしば聞かれるため、マーティン・バースは「新しさ」とは何か、について真剣に考えてみることにしました。「実はそれってとても難しいことなんです。比較の問題ですから」とデザイナー。「一秒と一世紀の違い、単発的に盛り上がることと時間をかけて大きく変化することの違いについても、結局のところよくわかりません。しかし確信はありました。今回俺、“新しい”なにかをつくったんじゃないかって」。
バースは、フローニンゲンミュージアム(オランダ)の協力のもと、「空間」と「時間」という観点から2つのプロジェクトを立ち上げます。それは120ヘクタール(サッカー場200個分)の規模の敷地を使い、とんでもない時間をかけて作品をつくりあげるというもの。彼は今年、予測がつかないけれど極めて“新しい”活動を始める予定です。

The NEW Forest

「The NEW Forest」は時間とスケールに関する探究のプロジェクトである。グーグル・アースやドローンといった技術によって私たちは上空から見る景色に馴染んできた。そこで、惑星そのものを彫刻としてとらえることはできないか、あるいは、屋根をキャンバスとして見立てることはできないかと考えたのである。
このプロジェクトでは、葉や紅葉の色によって木々を分類し、特別な配置で植林する。その森が育つにつれ、デザインが少しずつ立ち現れてくるというわけだ。200年後の2216年までに森は生い茂り、上空からの景色はまさに「21世紀からの贈り物」といった様相を呈することだろう。上から見ると森は「NEW!」という文字を描いており、季節の変化によって異なる色の組み合わせを楽しむことができる。それこそ毎年、最新の「NEW!」を我々に見せてくれるはず。
「The NEW Forest」のための敷地にはオランダの人工島「Flevoland」の100ヘクタール(サッカー場約180個分※ママ)を予定。オランダ森林局が環境の取り組みの一環として指揮を執ることになっている。






The Tree Trunk Chair

「The Tree Trunk Chair」は200年かけて製造される椅子である。2世紀にわたり樹木に型を埋め込むことにより、幹は育ちながら少しずつ成形されていく。その後、型を取り除けば椅子は「収穫」可能だ。伐採してその部分を切り取れば、この21世紀のデザインをようやく使用することができる。
この技術は「Grown Furniture」(fullgrown.co.uk)で知られるデザイナーのギャヴィン・ムンロー(Gavin Munro)と共に開発し、フローニンゲンミュージアムが今後数百年にわたり木を管理していくことになる。最初の木は、今年中に同館の庭園内に植樹される予定だ。





詳しい内容、映像や画像についてはこちら(バースのサイト)をご覧ください。



5月4日追記(しかしながら上記とはまったく関係がありません)

「不可能なプロジェクト」について考えている。
そのプロジェクトはある直感的な出会いと共に私の頭のなかに浮かんだのだった。
最初はぼんやりと。できっこないけどそんなことがあれば素敵だな、と。でもきっと誰かが既にやっているんだろうな、というくらいに。それがだんだん、もしも、もしも誰もやっていないなら私がやるっていう可能性もなくはないのかな。もしも万が一私がやるとしたらどうやりたいかな。という具合に、ダメだダメだと自分でツッコミながらも抗いがたい妄想が膨らんできて、いつしか具体的なイメージを帯びはじめて、ある日、何かの弾みで誰かに伝えた時点でその「不可能なプロジェクト」はおんがあと産声をあげてしまったのである。
まじか。産んだからには、責任もって育てなければならない。不可能を可能にしなければならない。といいつつ、楽天家の私自身はそれほど不可能とは思っていないのだけれど。
それでマーティン・バースを思い出した。200年先のプロデュースだなんて耳を疑うようなプロジェクトも、最初は彼がぼんやりと思ったところからはじまったんじゃないかって。バースが言うことに対して表向きは「いいね」しつつ、心のなかで「バカバカしい」と一蹴していた人も少なくはなかっただろう。でもバースはたぶん楽観的に確信していた。俺、これやりたいし、やれるかも。で実際、実現しちゃう。200年後だけど。
そのことは私に夢を与えてくれる。実現できるのなら、200年後だっていい。ならば私が今、その種をまこうじゃないか。


2016年4月26日火曜日

旅するルイ・ヴィトン展の見どころ


「Volez, Voguez, Voyagez - Louis Vuitton」(空へ、海へ、彼方へ──旅するルイ・ヴィトン)展
2016年4月23日(土)~2016年6月19日(日)
特設会場:東京都千代田区麹町5丁目
入場無料、オンラインで時間予約が可能

「本当に実用的なトランクは、軽量で耐久性がなければならない。そして中の物を衝撃から守り、何よりも水分の侵入を防がなくてはならない。そのため、私はよく乾いた木材を使用し、外装に亜鉛や銅、あるいは油脂コーティングを施したキャンバスを用いる。さらに中に水が染みこまないようにゴム素材で補強するのだ。ビスで固定された錠前に、補強用の横木を立体的に取り付けることによって、私のトランクが持つエレガントな魅力が際立つ」。(ルイ・ヴィトン 荷造り及び旅行トランクの特許出願証明書(1867.1.18)より抜粋)
毛布のための木製ケース 1924年 木、金具 ※写真はすべてルイ・ヴィトン コレクション
グリ・トリアノン キャンバスの丸みを帯びたトランク 1860年頃 コーティング・キャンバス、木、金属、紙
専用のバックル レバーロック、5つのタンブラーロック、アールヌーボーロックとルイ・ヴィトン スプリング バックル
19世紀後期-20世紀初期 真鍮、ニッケル、金属

要は、「荷造り用木箱製造兼荷造り職人」がルーツである、と。

船、汽車、自動車、飛行機。輸送手段の進化と共に、さかんに旅をするようになった富裕層の安心安全かつ“エレガントな”(←大事)ムーバブル化を着実に実現してきた。これが「旅のスペシャリスト」を自負する所以である、と。

明快なメッセージが貫かれた本展。いちはやく特許を出願し(←これも大事)、ユーザビリティを考えた鍵の一元管理、コピー防止のために生まれた手描きのモノグラムなど、ディテールの背景にある根拠、「いったい何(誰)のために何をつくってきたのか」というものづくりの歴史がひじょうによく整理されている。派手なインスタレーションはないが、150年経たモノの威力に勝るものはない。ルイ・ヴィトンはファッションじゃない、歴史なんだ、と鑑賞者は思うことだろう。

圧倒されるのは、伝えることに対する本気度のすごさだ。赤坂のニューオータニの裏に大規模な特設ミュージアムを建てて、重文級のコレクションを惜しげもなく見せる。しかも無料で、誰にでも。会場には多数のスタッフを配し、作品について説明してくれる。街中に広告を打って、ラッピングのシャトルバスを走らせる。それが世界を巡回する。

ストライプ・キャンバスの婦人用ロー・トランク 1886年 コーティング・キャンバス、木、革、真鍮、テキスタイル、金属、塗料
天然鞣し革のトランク「イデアル」1903年 天然鞣し革、木、真鍮、金属、テキスタイル
コットン・キャンバスの「スティーマー・バッグ」1901年頃 コットン・キャンバス、革、真鍮

目に見えない情報の時代。だからこそ一つひとつの土地を訪れ、直接モノと対面して感じてもらうことが大事なんです。それは誰もがわかっている。わかってはいるけれど、実際にやろうとすれば大変な労力と覚悟が必要なのであって。15年度2ケタ増収とはいえ、本当にこんなプロジェクトを実現してしまうなんて、ルイ・ヴィトンはいったいどれだけ本気なんだ、と鑑賞者は思うことだろう。

「自分たちのことをわかってもらいたい」という強い思い。もっと言えば今後数十年を見据えて「今だからこそ、わかってもらわなければならない」という危機感。

日本はここまで本気で何かを伝えられているだろうか。「いいモノをつくっているんだから、わかる人にはわかる」と高を括ってはいないだろうか。日本人同士ならば、前提となる教養や感性があって沈黙のコミュニケーションも成り立つだろうけれど、本気で世界に打って出るとなればやはり伝える力を強化していかなければ。しかも第三者に頼ることなく、自分の力と情熱で。

伝えたい、という姿勢。それが本展の最大の見どころではないだろうか。

(手前)コーティング・キャンバスのスーツケース、クロワジエール・ジョーヌ(黄色い巡洋艦隊)のためのカスタムメイド 1930年 コーティング・キャンバス、木、革、金属、テキスタイル (中央)クロワジエール・ジョーヌ(黄色い巡洋艦隊)で使用されたジュラルミンのベッド・トランク 1910年 ジュラルミン、革、鉄、テキスタイル
ガストン-ルイ・ヴィトンの書棚トランク、モノグラム・キャンバス ガストン-ルイ・ヴィトン プライベート コレクションの蔵書とともに 1936年 コーティング・キャンバス、木、銅、ロジン、革、テキスタイル



2016年4月18日月曜日

「toolbox EXHIBITION 02」

デザインチーム「toolbox」は、AXIS vol.180のトピックス「揺るぎない個性を貫く3組のクリエイター(toolbox、コシラエル、iai)」のなかで取りあげている。

昨年秋、新宿・Bギャラリーで行われていた個展「toolbox EXHIBITION 01」で、「なんだこのひとたち!」ととても興奮したのを鮮明に覚えている。メンバーの1人が京都に帰るところを「話を聞きたいのですが!」とひきとめ、挨拶もそこそこにいきなりインタビューをはじめたのだった。見たことがないようなものばかりだったので、聞きたいことがたくさんあった。そして数週間後には掲載の予定もないのに京都の工房に飛び込んでいったという、奥手な私にしては大胆なあれだった。

彼らの話もすごくおもしろいのだけど、とにかく作品がすごくて。もう、おかしいねこれ、とでも言うしかないレベルでして。「高い精度」「ユーモアと遊び心ある」などありきたりな言い回しなど一蹴、むしろ彼ら真剣に遊びすぎたあまり、キレキレに研がれた刃物のような緊張感すら漂っている。ぬくもりとか癒しとはほど遠い。そういう木工、今まで見たことありますか。
(詳しくはどうかAXISをご覧に・・)

メンバーは「手が器用で頭が良ければ誰でもできる、あはは」って笑うけれど、全然そうは思わない。いくら見た目がいけてて、歌もうまくて、いい学校出てても、いいアーティストにはなれないのと同じで、根本的に針が振り切れてる何か、オーディエンスの深層心理を一瞬で引っつかんでいくような、極端な何かがくすぶっていなければ。

toolboxにはどうもそれがある。問題解決や用途ありきのものづくりではないから分かりにくさもある(そこがいいのだ)。よって評価も割れることだろう。プロダクトでもクラフトでもアートピースでもない、従来のモノの見方ではたぶん通用しない世界観。どこに行っても「なんだこりゃあ」となる。で、スルーされているのかと思ったら、誰かが一気に全部買っていってしまうような。

音楽か。空気か。目には見えない、尖った何かを共有する遊び。としか今は言えない。これからいったいどうなるんだろう。ワクワクハラハラしながら、これからの動きが気になって仕方がない。

そんなtoolboxの、二回目の個展が京都で開催中。

「toolbox EXHIBITION 02」ホテルカンラ京都
※写真はすべてtoolbox提供

会場はギャラリーではなくホテルのロビーです。そういう場所を選ぶところもまた。
前期の展示が終わって、16日から後期がはじまっている。5月1日(日)まで。

「toolbox EXHIBITION 02」
ホテルカンラ京都

AXIS 「jiku」 記事
「加工精度を表現として見せる。toolboxの個展が、3月18日から京都でスタート」


といいつつ私自身まだ行けておらず、行けるかどうかすらあやしくなってきた今日この頃、せめてお近くの方や今週末から始まる京都国際写真祭2016においでの方々に向けてお知らせしたいと思った次第です。ぜひ実物をその目で! (私も行けたらレポートします)









毛利悠子「Pleated Image」


毛利悠子さんの個展「Pleated Image」がwaitingroomで開催中。3年ぶりとなるギャラリーでの個展がすごくいいです。

昨年の日産アートアワードや、開催中の六本木クロッシングで見たような、ある意味「集約された」感のある作品とはまた違って、ここではひじょうに良い意味で「散らかって」いる。毛利さんの発想が間断なく広がっていくのを感じるのだ。

日産アートアワード2015・グランプリ受賞作 《モレモレ:与えられた落水 #1-3》

六本木クロッシング2015出品作 《From A》

空気中のホコリや湿気など、環境を構成するエレメンツに繊細に反応し、ジャンクたちが一回性の音や動きを生み出すという、モノのエコロジー(生態系)みたいなインスタレーション。これまで毛利さんが取り組んできたベーシックな構成に加え、今回新たに組み込んだのがデジタルイメージという出力の方法だった。

具体的には、ロープが反復運動するプロセスで偶発的に電球が点灯するというメイン装置「Fort Da(wall)」(2016)の周辺に3台のスキャナーを配置し、それらが常にインスタレーションの断片をスキャニングし続けているというもの。同時に、200dpiの解像度でスキャンされた画像はFlickrにアップロードされ続けている。



個々の画像はインスタレーションの全貌を明らかにすることはない。垂れ下がってスキャナーに近づいてきたロープの一部や、スキャナーのガラス面に取り付けられたレプリカの蝶が動くために生じるモアレ、あるいはたまたまスキャナーを覗き込んだ来廊者の顔の一部など。それらはインスタレーションの概要を知るにはあまりにブレて、ボケて、曖昧だ。


とはいえ、そこに写り込んだホコリや人の影らしきものは、その空間で流れていた時間を感じさせるし、黒い縞模様のなかに装置が発する音を感じることができるかもしれない。

それは、我々が「心霊写真」を見る時のように、曖昧なイメージに対して想像力でコミットしていくことができるからだ。ハイレゾ時代に、あえて頼りない情報量しかもたないデータを排出し続けるインスタレーションの狙いは、作品(モノ)と鑑賞者のあいだにあるインタラクションをより親密なものにしてみたいということなのか。

インスタレーションの最終的な出力先は「Pleated Image」という作品である。スキャナーが無作為に一瞬を切り取ってFlickrにアップロードしたインスタレーションの断片、さらにそこから選ばれたいくつかの画像が“ライトボックス”となって空間につなぎとめられている。今、この密室で流れるように展開されているエコロジーを別次元に転送することは可能なのか、別メディアに定着させることは可能なのか。そんな問いが見え隠れするチャレンジだ。

というのも、毛利さんのインスタレーションは会期が終わるとバラされ、二度とその瞬間が戻ることはない。それをなんとか「(永遠に)つなぎとめておきたい」という想いが、それを産み落とした作家の責任あるいは欲望としてあったはずだ。しかも、写真や映像による第三者的な記録というかたちではなく、あくまで自らの手で作品の「気配」をすくい上げるというかたちで。例えば、ある時代に多くの人が制作に没頭したという「心霊写真」のように。それが今回、スキャン、転送、オブジェクト化(ライトボックス化)という一連のプロセスにつながったのではないだろうか。

(それで思い出したが、昨年墨田区のアサヒ・アートスクエアで行われた毛利さんの個展「感覚の観測《I/O ─ ある作曲家の部屋》の場合」では、インスタレーションを「数値化する」ことを試みていた。それもある意味、作品の「気配」を別メディアに定着させるための実験だったと言えるかもしれない)

「感覚の観測《I/O ─ ある作曲家の部屋》の場合」


かくしてオブジェクト化された「気配」は美しい。記憶を厳重に閉じ込めるかのように、周囲を無骨なアイロンワークのフレームで縁取った「Pleated Image」は、二次元のなかにあの空間の断片が折りたたまれている。コンセントを差し込めば内蔵のLEDライトが点灯し、過ぎ去ったアノニマスな一瞬が幻灯のようにプロジェクションされる。


記憶の中に、あの音が、あの動きが、そこにいた自分自身の小さな心の動きまでもがよみがえるようだ。しかし同時にどこか、言いようのないもの哀しさを覚えるのはなぜなのだろう。茫漠とした光のなかに哀しみ。これまで、強く明るく立ち上がっていると勝手に思い込んでいた毛利さんのインスタレーションの本質とはもしかしたら。なんてことを思った。


ところで今年はこの後、毛利さんの作品を日本で見られる機会は予定されていないとのこと。新たな展開を見せている同展をどうぞお見逃しなきよう。


waitingroom
毛利悠子 個展『Pleated Image』
2016年4月9日(土)~ 5月15日(日)
会期中は、月曜 17~23時および金・土・日曜 13~19時の開廊。

会期中に会場でスキャニングされている画像は、以下のFlickrサイトにリアルタイムで掲載。
https://www.flickr.com/photos/139876404@N07




2016年4月15日金曜日

ナイル・ケティング「マグニチュード」


(以下、森美術館で開催中の「六本木クロッシング」より、参加アーティストのナイル・ケティング氏がインスタレーション「マグニチュード」について語った話をまとめています。4月16日(土)からは山本現代で個展もスタートします)



六本木クロッシング2016 僕の身体、あなたの声
2016年3月26日(土)~7月10日(日)
森美術館

(東京都現代美術館で)展示のキュレーションをやった時、「無機物と有機物の関係性から新しい身体性を発見したい」というような考えで構成したんです。そこから、その無機物と有機物が立つ舞台としてのエコロジーがいったいどんなものなのか気になって今回の作品をつくっている。現在のポストアトカリプティックな状況に対して、自分の立ち位置をどう見つけ出してロケートするかすごく考えました。
そのなかでキーワードとして「エネルギー」という言葉が出てきました。メディアでも「エネルギー」ってよく使われているけれど、それが実際どんなマテリアルで、どんなもので、どんな風に私たちの生活に影響しているか、自分でも分からなかった。それでエネルギーについて最初に考えようと思いました。

「マグニチュード」という言葉はもともと、星の等級、光の強さを表す言葉だったそうです。アポカリプティックな状況という示唆的なものと、エネルギーが生み出す光といったものがオーバーラップしてきて、光について読んだりしている時にトーマス・エジソンの名前が自然に出てきた。これは私が見つけた資料で、エジソンが最初に電球を発明した時に、魔法使いのようなビジュアルで新聞に扱われたものです。

 
私たちがエネルギーとか、科学技術とか、新しいものに触れた時にどういったトランスレートをするか、ということが今回の一つの視点になっています。見えなかったもの、近づけなかったようなものがマテリアル化された時、すぐには身体化できないから何かに置き換えないといけない。そこで人はファンタジーとかナラティブを用いると思うんです。そこで科学と神秘の関係をベースに、私が集めてきたリサーチをシーケンス化して一連の映像として起こしています。

例えば映像に出てくるこの女の子は肩に鳥を乗せていますが、これはギリシャ神話のプロメテウス(ゼウスに背き、人類に火を与えたとされる)のメタファーです。このシーンは私がつくりだしたトランスレートで、ユートピアの世界、ポストプロメテウスの時代を描いています。プロメテウスは(人類に火を与えた罰として)鳥に肝臓を食べられ続けているわけですが、そのうち鳥たちが「こんなのバカバカしくない?」と思って女の子のペットになる(笑)。「プロメテウスの火」って科学者が「制御出来ない力、エネルギー」のことを言うようだけど、鳥を手下に置いて支配しているのは、科学技術が完全にコントロールされている状態。そういった意味で彼女を映像の中心においています。



それから「EDISON」の文字が出てきます。これは、エジソンがパリ万博で電球を発表した時に自分の名前を電球で表現したことに基づいています。ほかの人の名前も出てきますが、それらは電球を発明したのに特許をとらなかった科学者たちの名前です。「もしかしたら存在したかもしれない歴史」をつくって、エジソンを曖昧な存在に置き換えています。



映像ではエジソンはホームレスとして登場して、最後はエフェクトを使って自分の手から光を出します。人って、人工的なファンタジーを見る時にまるで自分が体感しているかのように捉えて、リアルの風景に置き換えますよね。私が特に気をつけたのは、私たちが生きている時代において、ファンタジーというものが、どんな風に商品化されているか、ということでした。ディズニーランドをリサーチして、音響の作り方からアイデアを取ってきたりしています。展示をよく見るとすごく政治的なオブジェクトが並んでいたりするんだけど、実は印象とか感情みたいな、抽象的な要素で構成しているんです。なぜエジソンがホームレスの姿をしているかについては、こういうキャラクターがトリックスターであってほしいという思いも込めて(笑)。



まずこれらの映像があって、そこからなだれおちてくるモノたち、映像で流れきってしまうものをネイルしてあげる、とめる。例えば、科学者たちが発明しながら実現できなかった電球のモデルなどをインスタレーションとして展開しています。「invent(発明)」という英語はもともと「ものや話をでっち上げる」という意味がある。だから現実的だと思っているものも、もしかしたら誰かにつくられた現実かもしれない。それと同じように科学も魔法使いの曖昧さと似ているんじゃないか。それをインスタレーションとしてキャラクター化、実像化してみた、というのがこの作品の主旨です。



今回はシーメンスに協力してもらい、シーメンスのなかにある高電圧試験研究所を取材したんです。彼らは巨大な電圧システムを持っていて、雷をつくって自分たちの製品をテストしている。神話では、雷って神様がつくるものじゃないですか。それが今や人間の手、企業の手のうちにまわっている。神話はもはやテクノロジーやビジネスのなかにシフトしてきている。そういったところでのナラティブが、新しい世界の多様性のあり方につながっていくのではないかなと。

これは「サブストーム」という新作で、リキッドクリスタル、つまり液晶です。ディスプレイのなかに入っているゲルがこういうもので、私が練ってつくって、アクリル板のなかに注入したんだけど、ずっとこの状態の色が保たれる。実際は透明のゲルなんだけど、光が当たるとスペクトルによっていろんな色が見えるんです。これは「マグニチュード」という光の単位から連想したもの。(宗教絵画で)神様は光として描かれていた。それが絵画ではなくてディスプレイだったら、いたるところに神様がいるということになりますよね(笑)。ディスプレイというものがある意味私たち人間をつないでいるんじゃないかと、液晶のマテリアリティみたいなところでちょっと遊んでいる作品です。アクリルの表面にはエングレーブがしてあって、これは私の遊び心。NASAから取ってきたオーロラの観測データです。オーロラも、太陽から注ぐ電気の風が地球に降り注いでああいった色になっていますよね。



この装置はプラズマなんです。プラズマから音響を発生させています。聞こえてくるリーディングの内容は、私が見つけたアメリカのニューエイジグループの朗読。このグループは宇宙にあるプラズマが私たちの脳に作用していて、それが神様のお告げだと考えているんです。私が彼らのテキストを読んだ時に「これって、かつて近代科学が神話とつながったりしていた、自然のあり方なんじゃないか」と思って。彼らにとってはプラズマが神様であり、そのお告げを聞くための装置をつくったわけです。



この竹は(笑)。エジソンが最初にフィラメントをつくって成功させたのが京都の竹だったらしいんですよ。誰かから扇のお土産をもらって家にあったみたい。それを割いてフィラメントにしたんです、ほかの竹じゃダメ、京都の竹じゃないとダメで。神様とか光をつくる原型のマテリアルが竹という、ひじょうにドメスティックなものだったりするという。そんなエピソードを知るだけでもシネマティック、ドラマティックな状況だと思うんです。 



私がずっとフラストレーションだったのは、例えばアーティストが福島に白い服を着てビデオを持って入っていくという行為が、それが、本当に政治的なのか分からないってことだった。私はそうではなくて、もっと違う、むしろポジティブに変換してしまうくらいの逆方向の流れをつくりたかった。「放射能」という言葉を一切使わなくても、見ている人が自然に体内化していくような、ある意味、一つの舞台作品みたいなつくり方をしたいんです。



16日(土)からは山本現代で個展がはじまります。山本現代の展示は、ここ(六本木クロッシング)の展示のネガ(ポジ)ヴァージョンという位置づけ。私が考えている環境の世界観とか、新しい世界の見方をピックアップしています。例えば、シーメンスで撮影したショットも、こっちは白黒で古い機械が並んでいるように見えるんだけど、向こう(山本現代)はカラー写真で逆にフューチャーな感じにしています。必ずしも六本木クロッシングとはセットではないけど呼応しています。

山本現代ナイル・ケティング 展「ホイッスラー」
2016年4月16日(土)~5月14日(土)
開廊時間:11:00 ~19:00(日曜・月曜・祝日休廊)
オープニングレセプション:2016年4月16日(土) 18:00 ~ 20:00
パフォーマンス「First, Class」:2016年4月16日(土) 19:00 ~



ヘルシンキの印象

シンガポールの印象について書いてから、気づくと一ヶ月も経っていて、その間にヘルシンキに出かけており、夏から冬と季節をやり直して改めて春めいた日本に戻ってくるとここはすっかりミラノの話題でもちきりなのであった。まったくついていけていない。同じデザインのことをやっているはずなのに拭えないこの蚊帳の外感。まあいいか。


ヘルシンキではアルテックの新しい旗艦店を案内してもらい、マリメッコやイッタラのお店でわくわくお土産探し、アラビアのアウトレットで親会社フィスカルスの斧を買い、クリエイティブな趣向がいっぱいのスカンジナビア料理に舌鼓を打ったりと初めての北欧を存分に楽しんだものだが、勿論それだけでありません。旅とは不思議なもので、歩けば思わぬ分野との衝撃的な出会いもあり、むしろそうした肝要な部分をお伝えするために、私はこれから鋭意頑張らねばならないところである。

アルテックの新しい旗艦店。フィンランドの建築家エリエル・サーリネン(エーロ・サーリネンの父)が設計した建物(1921年)のリノベーションは当時の意匠を活かしている

まあそれはおいおいやるとして、一言で言うとヘルシンキはデザイン都市だなと遅まきながら実感した(実際2012~2014年のワールド・デザイン・キャピタルに選出されていますし。ちなみに現在のWDCは台北)。大使館の冊子に「フィンランドではデザインが空気のように行き渡っている」というようなことが書かれていたが、まさにその通りで。なんだか街の広告も、サイン計画も、カフェで出てくるコップも、トイレの壁ですらも、目にするものいちいち、デザイン的な配慮のようなものを感じるのである。

デザインミュージアムでも、1800年代からのアーカイブは見応えがあった。アルヴァ・アールト、イルマリ・タピオヴァーラ、タピオ・ウィルッカラ、カイ・フランク、エーロ・アールニオ、、、フィンランドが世界に送り出したデザインの巨匠は数多い。彼らがつくりだしたプロダクト(考え方)は自然なかたちで家庭のなかに入ってゆき、人々の生活を彩ってきた。


デザインミュージアムのアーカイブ

雪に閉ざされ、圧倒的に室内で過ごすことが多い地域ならではの感性なのか。手で触れられる範囲のもの、家族など小さなコミュニティへの深い関心は、身近な隣人がより良く、幸せに暮らすためのデザインを志向する。こうしたデザインに囲まれてフィンランドの人たちは育ち、まるで呼吸するようにデザインの概念を取り込んできたのだろう。

あるデザイナー夫妻の家にお邪魔させてもらったが、クリエイティブや斬新さというよりはあたたかみと安心感のあるリノベーションが印象的だった。正直、ヘルシンキの町並みが美しいとは思わないが、建物の中はおそらくどの部屋でも個々の価値観に基づくインテリアがのびのびと展開されているはずだ。決して誰かに自慢するための衣・食・住ではない。家族とともに心地よく暮らすということが、フィンランドの人にとってはある意味生きる道そのものなのである。


アラビアのアウトレットのミニ展示。
3月に工場が閉鎖され、製造が完全にアジアに移ったということで、現地の人が残念がっていた。アラビアはフィスカルスグループの傘下にある

「VISIT HELSINKI」というヘルシンキ市の観光を担うディレクターが「デザインの力を使ってヘルシンキという都市をより良くしていきたい」と話しているのが印象的だった。外から観光客を迎えるということは、同時に世界に向かって都市の魅力を発信していくことであり、都市をより良い方向へと発展させていくことにつながる。そのためにデザインをどう使うべきか考えたい、というのだ。「単にものを作ったり、パッケージやロゴを刷新することだけがデザインではない。大切なのは考えかたをデザインすることだ」。そうした言葉が市や団体の職員、さらには訪問した教育現場から自然に出てくることに驚かされる。まさに隅々までデザイン、である。
Design Stories from Helsinki
http://www.muotoilutarinat.fi/en/
ヘルシンキ市によるデザイン戦略を紹介するウェブサイト。18世紀のクラフツマンシップにはじまるフィンランドのデザイン史を振り返り、ビジネスに貢献するデザインの時代を終え、これからは公共部門が本格的にデザイン思考を活用する時代に入るのだ、と呼びかけている。
その際、戦略デザイナーのMarco Steingergは「計画(Think)」と「実行(Do)」のプロセスが同時に行われなければならないとしている。「デザイナーは一回きりのプロジェクト(しかも結果がわかりきっているようなもの)に参加するのではなく、リアルな意思決定がなされるテーブルにつくべき。構造的な変革が求められているような事業では同時にサービスや建築などに落とし込まれるため、計画と実行を同時に行うデザイン思考のニーズが高い」
このウェブサイトでは、デザイン思考を取り入れたまちづくりの事例なども紹介している。


今回はほんとうにさわりだけ、ご挨拶程度のヘルシンキだったが、郊外へ足を伸ばせば若いクリエイターがいきいきとものづくりをしている地域もあるという。ESPOO市には、印刷工場をリノベーションしたフィンランド最大の素晴らしい美術館(EMMA : Espoo Museum of Modern Art)があり、同国の近現代美術はもちろん、今後はデザインの発信にも力を入れていくという話なので見逃せない。ちなみに日本からも多くの学生がフィンランドの大学でデザインを学んでいると聞く。そこで彼らが培ったネットワークによって、今、少しずつ両国間のデザイン分野での協働が進みつつある。ハリ・コスキネン(40代)の下の世代だ。


EMMA

先述のデザイナー夫妻は日本の仕事も多いという。「フィンランド人と日本人の感性は共通するところがある。仕事のやり方や慣習は異なるが、思考が似ているのでやりやすい」。
そもそも日本において北欧、特にフィンランドのデザインが長く深く愛されているのも、単に色かたち素材というだけでなくもっと本質的な何かに共感を覚えるからだと思う。今はそれについて論理的に説明できる材料をもたないけれど、引き続き同時代のフィンランドデザインを見ていくなかで少しずつ整理してゆけたら。


色々なところでちょいちょい見かける「TOM OF FINLAND」のコラボ商品

ダイナミックなスクラップぶりが妙に気になってしまいました