2015年9月27日日曜日

TAKAO 599 MUSEUM(タカオゴーキューキューミュージアム)

8月、多くの登山客や観光客でにぎわう高尾山のふもとに、TAKAO 599 MUSEUM(タカオゴーキューキューミュージアム)がオープンした。


八王子市が高尾山の魅力を伝える場として開設したもので、館内では高尾山に生息する動植物の標本や生態の展示を行うほか、カフェや子供が遊ぶスペースなども備え、登山に限らずさまざまな目的で訪れる人の憩いの場としても機能している。

いわゆる観光案内所とは一味ちがう情報発信ともてなし。しかも地元の土産物店や飲食店とバッティングせずに集客する方法として無料のミュージアムという形態にたどりついた。


近年、博物館でも動植物園でもなく、「ミュージアム」と名乗る施設が独自の進化を遂げている。11月に大阪・万博公園で開業予定の「ニフレル」も海遊館が提案する新しい水族館の在り方として「ミュージアム」を標榜している。その明確な定義はないけれど(※)、建築はもとより生態展示や情報伝達の方法などコンテンツまでトータルに計画(キュレーション)されたプロジェクトを指しているようだ。コンセプト策定の初期段階から、建築家やアーティスト、デザイナーが入って運営まで含めた施設のプロデュースに携わる。かつての「ハコモノ」時代はいよいよ終焉を迎えたのだろうか。

ミュージアムという新しい場所で活躍を期待されるのがアーティストやデザイナーだ。これまではできたハコに対してコンテンツを提供する側だったが、ミュージアム時代には「そもそも何を体験してもらうか」というところからアイデアを求められるようになる。TAKAO 599 MUSEUMでも、アートディレクターの大黒大悟氏(日本デザインセンター)が入り建築のプランから展示・運営、そして本業であるコミュニケーションまで全体を見ている。

TAKAO 599 MUSEUMを貫く柱は「SHARE」というコンセプトだ。高尾山は都心から最も近い登山スポットであるだけでなく、外国人の観光スポットとしてもまた近隣の家族連れが気軽に遊びにこられる公園的スポットでもあり、つまりは実に多様な人々が集う特別な山である。例えば、私は山に登らないが、ダンナは登る。でもTAKAO 599 MUSEUMに来れば、山に登らない私でも高尾山には3000種類もの植物があることを知るし、山に登るダンナは何月にどのあたりで何の花が見られるかという情報を得られる。目的が違っても、みんなが凝縮された「高尾山」を共有できるのだ。


もちろん、生の植物をアクリルに閉じ込めた標本展示や、実際に山にいる動物たちの生態をアニメーションで描いたプロジェクションマッピングなど、ミュージアムを名乗るにふさわしい「作品」として、それだけを見に行く目的でも十分だ。子供たちも、高尾山系の地形を模した遊具や、外の水遊び場などで楽しく過ごすことができる。情報発信だけでなく、憩いや遊びの広場として機能している点もポイントだろう。



(※)ちなみに「博物館」の定義は、
「博物館」とは、
・歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、
・その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、
・あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(公民館及び図書館を除く。)のうち、
・地方公共団体、民法(明治29年法律第89号)第34条の法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人(独立行政法人を除く。)が設置するもので登録を受けたものをいう。
(現行の博物館法第2条の規定)
なんかよく分からないけど、だいぶ上から目線っぽい。

2015年9月26日土曜日

試写『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』

(ネタバレかもしれません、ご覧になる方はご注意ください)

ドキュメンタリ映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』
(Saul Leiter, In No Great Hurry)
11月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開


写真は詳しくない。

ニューカラーと言われても、ウィリアム・エグルストンしか知らない。

でも本当に素敵な写真なんだ、ソール・ライターの写真は。

40年代から60年代にかけて撮られたそれらは、このドキュメンタリーの、つまりライター氏へのインタビューのあいだにさしはさまれる。曇って水滴が伝う窓ガラスから見える雨に濡れたニューヨーク。花咲く色とりどりの傘。壁を埋め尽くすロゴマークや広告。およそ旅人の視点ではないし、作品を作ろうと意図して撮った写真でもない。あくまでこの街の一住人として、アッパーよりはロウアー、生活者というよりはまるで野良猫みたいな視点で、せわしげに移り変わってゆく都市を切り取ってきた。

1923年生まれの写真家ソウル・ライターが世界に“再発見”されたのは、2006年に写真集『Early Color』が出版されてから。既に80歳を超えていた。だからこのドキュメンタリーが撮影された時も、「何をいまさら」とばかりカメラには心を許さない。老人は自分のよく知らない男(撮影者であり監督のトーマス・リーチ)の質問に答える。答えはするけれど、謙虚さをわずかに含んだ憎まれ口をたたくことも忘れない。それから軽く咳こむようにクックッと笑いながら自嘲気味に煙に巻いてしまう。

そんな手ごわい老人を優しく包んでいるのは、部屋だ。ロウアーイーストサイドの天井の高いロフト。フェルメールの部屋を思わせる大きな窓からやわらかな自然光が入ってきて、話し方も何もかもマイペースな老人をそっと抱きしめる。また、ときどきカメラは助けを求めるかのようにライターの足元をうろついたり、窓際でひっくり返って眠る猫を映し出す。部屋と老人、ときどき猫。簡単にいえば、70分あまり、ほぼこの構図のままである。

だからといって決して静止画のような映画ではないのでご心配なく。物語らしきものも背後に感じられる。片付けの苦手な老人が、足の踏み場もないほど山積みになったプリントや箱の類をなんとか片付けようと奮闘する、という物語だ。部屋の整理整頓は、自身の人生や記憶を整理することでもある。でも彼にはそれが難しい。面倒くさいのもあるし、正直本当は何も捨てたくないのだ。放っておいてほしい。だから「これはあとで」「これはもう開けなくていい」「これは秘密だ」という具合にのらりくらりと逃れようとする。

それでもアシスタントの手を借りながら片付けは少しずつ進んでゆき、ある日、隣人であり芸術家でもあった女性(故人)からもらった小さなアートピースを発見した時、ライターの表情が初めてかすかな昂ぶりを見せるのを観客はきっと見逃さないだろう。人生は深い。そして80年は重い。でもここから先は書くのをやめておく。

この映画ができてから約1年後の2013年に“偉大な写真家”は亡くなった。あの調子だから、きっと撮影後も片付けはたいしてはかどらなかっただろうな。むしろそうであってほしい。膨大なプリントとフィルムと、住み慣れたこの街の思い出と空気にきっと優しく包まれて。

SHUNGA 春画展

少しくらい、はじらうべきだろうか。

芸術的にも歴史的にもそれについて語れないのなら、あえて触れないことが無難だろうか。

美術館や新聞社も取り上げられないのだから、見習って行かなかったフリでもしておいた方が。そこで見たあれやこれを胸にしまって墓場までもっていくくらいの奥ゆかしさが大人の態度というものだろうか。

でも行っちゃったんだもの。

見ちゃったんだもの、あれやこれ。

しかも初日にいそいそと。

SHUNGA 春画展
2015年9月19日(土)~12月23日(水・祝)
永青文庫


永青文庫は初めてである。目白駅からバスに乗って椿山荘前で降りて。緊張しながら5分ほど歩き、静かな住宅街の奥まったところが目的地。都会の小さな森というおもむきで、秘めやかに建っている瀟洒な西洋風のお屋敷が同展の会場である。

館内に敷かれた赤い絨毯が今日はなんだか特別な演出に感じる。すれ違った紳士が連れのご婦人に「いやあ圧巻だったなあ」と半分照れ隠しの笑いを浮かべて声をかけていた。白昼男女で来ちゃうのね。私は無理。愛するダンナ様とでも無理。見ないフリして見るなんて絶対無理。。




はい。

嘘です。

見ました。

両の目玉がっつり刮目、あれやこれ隅の隅まで見てきましたよ。四十過ぎてはじらいなどという単語はいつの間にか辞書から削除されてましたので。街でオジサン化したオバサンを見かけるけれど、間違いなく私もそっちのベクトルだ。仕方がない。骨董市に行けば必死の形相で探すのは男女交合の古き彫刻や張形の土産物やら春画の類である。どれも高価なのでなかなか手は出ないのだが。

そもそも春画や男根崇拝は子孫繁栄、武運長久を祈念する身近な縁起物という位置づけだったのである。江戸時代には大名のお嬢さん方の嫁入り道具(指南書)だったそうだし、春画を家に置いておくと火事にならないとも信じられていたようだ。友人が「春画で自慰できるようになったら相当レベル高い」と言っていたが、これは重要な一言だと思う。なぜならここに展示されている春画は底抜けに陽気な祝祭感と肯定の雰囲気に満ちており、そこで奨励されているのは農耕や工芸などと同じように豊かな生産のドラマとしてのあれやこれ、なのである。

色とりどりの着物の柄と柄が幾重にもみだれ舞うなか、かの生産的なる部分に視線が向かうように朱赤を利かせた葛飾北斎、女性の姿態を四季折々の花に譬えた構成(月岡雪鼎『四季画巻』)など風雅の極み。モノクロ調に描かれた肉筆画『耽溺図断簡』(絵師不詳)はあたかも銀河が形成される瞬間を思わせる壮大な景色である。いずれも絵師の卓越した力量と想像力、「ザ・自由」としか言いようのない諸先輩方のみやびな生き様(同じように死に様も凄かったことだろう)に感嘆敬服するばかりで、どうも現代の一小市民たるおのれごときがエロい気分にはなりにくい。そんなのなんだか申し訳ない。それとも私がオバサンすぎるためだろうか。

こんなこと言ったって「わいせつ的表現」と受け取る方もいらっしゃるでしょうし、さすがに密かに見るべきものでしょうし、法律で言う「羞恥心」「性欲」「性的道義観念」のレベルもまちまちなので然るべき策は必要だ。本展でも18歳以下は入場禁止とし、公立の博物館美術館など多くの人が目にする場所にはなるべく印刷物を掲示しないといった配慮はなされている様子だ。(本展のチラシやポスター、図録の装丁などは実に秀逸で洗練されたデザインであることは強調しておきたい)

でもまあ、「芸術か、わいせつか」なんていう明治維新以降現在まで散々尽くされてきた主観的議論はさておき、もしも少しでも興味関心がおありならまたとない機会なのだから臆さずぜひお出かけになることを勧めたい。はじらいの薄まった熟女が言うので大した説得力はないけれど、少なくとも消極的な気持ちにはならなかった。むしろ「もっと柔軟になってもいいのかしら」くらいには思いましたよ。ふふ。

2015年9月25日金曜日

大井川鐡道の「きかんしゃトーマス」

キャンプ場があればどこへでも行き、年中観光客をやっているような者からすれば、最強のおもてなしはやはり地元の人とのコミュニケーションである。

先日の連休、娘が大井川鐡道の「きかんしゃトーマス」に当選して静岡までキャンプがてらに出かけてきたのだが、終始驚かされたのは地元の人々の笑顔であった。

トーマス列車は、先頭のリアル蒸気機関車(トーマス)と7両の客車から成る実寸サイズのトーマスで、一日2本、千頭駅―新金谷駅間を1時間半ほどかけてゆっくりと走る観光列車である(車両の編成や本数は曜日や期間によって異なります。2015年は10月12日まで運行。あ、クリスマスにも運行するらしい。詳しくは大井川鐡道のウェブサイトをご参照ください)。

トーマスは小さい乗り物やプラレールもかわいいが、リアルサイズの方がもっとかわいらしい。千頭駅のホームで待っていると線路のカーブの向こうの林から、蒸気を「ピッピー」と吹き上げながらやってくるトーマス。その勇姿にいいトシの大人でも思わず昂り、涙が出そうになる。一生懸命働いている姿が愛おしい。グレーの顔も実物で見るとそれほど怖くはない。ちなみに目も動きます。



乗車したらしたで雄大に流れる大井川を眼下に、いくつもかかる吊橋やトンネルなどソドー島に劣らぬ豊かな自然を車窓から楽しめる。谷に広がる川根茶の茶畑の豊かな緑も素晴らしい。もちろん、時折カーブの先に見える先頭を走るトーマスの後ろ姿も感動的だ。


で、お弁当をつつきながら外を眺めていると、みんなが手を振ってくれる。病院に勤めている人も、工場で働いている人も、川で釣りをしている人も、車で追いかけてくるおじさんも、みんながこちらを見て笑いかけて、手を振ってくれるのだ。橋の上から「ようこそ」と書かれたプラカードを掲げていたご婦人もいらした。皆さん、トーマスがその場所を通過する時間を把握して待っているのだ。

顔のついたカラフルな機関車が走っていくことで、地元のみなさんにとっては見慣れた景色がファンタジーに一変する面白さもあるのかもしれないし、ガチでトーマスが好きなのかもしれないし、それは分からないけれど、たぶんみなさん来たいから来ているし、手を振りたいから振っておられる。道の駅に付属している温泉では露天風呂からはみ出るように裸の男女が大挙して手を振ってくださる。もちろん、客席の我々も裸の人々に手を振りかえす。

町中みんな笑顔である。なんと愉快なアクティビティだろうか。笑顔で手を振ってもらえる、あるいは振り返すって、他人同士でもこんなに幸せで嬉しいものかと初めて知った。ディズニーランドでキャストの人に手を振ってもらうのとはわけが違う。まさに無償の愛である。背景にどのようなライセンスビジネスが支配しているかなど無粋な詮索はこの際抜きにして、トーマスって地域を巻き込むすごいコミュニケーションデザインだった!!ということをお伝えしたかった。


もう一つ追記しておきたい。

千頭駅ではトーマス号が到着すると乗客を降ろし、客車との切り離しやロンドン発祥の手動回転台を使ってトーマスの向きを180度変え、同駅に常駐しているパーシーとヒロの横に並ばせるといった一連のイベントが立て続けに起きていく。その間、余計な司会進行や放送の類が一切入ることなく、大井川鐡道のスタッフによって淡々と作業が進められていくところが実にリアルでよい。


トーマスの世界観を借りてはいるけれど、お遊びではない。トーマスはじめ鐡道スタッフ各自がそれぞれの持ち場でその瞬間にやるべき仕事をシステマティックにこなす。その働く姿を皆さんにしっかりお見せする、という旨のエキシビションなのである。言われてみれば、トーマスのアニメ自体も徹頭徹尾与えられたお仕事をいかにやり遂げるかというお話である。突然音楽が聞こえてきてミュージカルが始まったりはしない。無駄な動きを排したリアルな仕事っぷりへのこだわりがこのイベントに深みを与えているのだろう。


月映

東京ステーションギャラリー
『月映(つくはえ)』田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎
会期:2015年9月19日[土]―11月3日[火・祝]


つきばえ
月の光に照らされて、美しく映えること。
(出典:大辞林)

しかし、ここでは、つくはえ、と読む。
大正時代の終わりに若き画学生が3人で立ちあげた、詩と版画の雑誌のタイトルだ。

今で言うと、バンドを組んだり、ジンを作ったり、というところだろうか。竹久夢二という時代のスターに憧れ、この頃紹介されはじめた西洋のアーティストに影響され、当初は新しい時代に向けた新しい表現を志したことであろう。

なのに、ここで発表された小さな版画の数々は、若者らしいみずみずしさや反骨や野心よりは、なぜだか悲しみに満ちている。底抜けに暗いのだ。彼らの版画を前にして、真っ先に私の頭をよぎったのは「いったいいつまで生きられるのだろうか」という漠然とした不安のようなものだった。実際、3人のうち田中恭吉は結核に冒され、藤森静雄の妹も17歳で亡くなるなど、メンバーとその周辺には常に死の影がつきまとっていた。

『月映』の刊行期間はたった1年。ぎりぎりの命と金。生きることの意味を半ば強制的に問われ、今この瞬間に可能な答えを刃先に託して刻んだ版画は、それゆえの深遠と達観を表している。死を背負わない創造はどうもインチキくさい。『月映』以前の同人誌などで見せた軽妙でオシャレなペン画の類とはまるで別人別物である。

背景はおおむね漆黒または白夜の闇に包まれ、小さき人物は背を丸めてうつむき、祈り、あるいはのけぞっている。恩地幸四郎に至っては号を重ねるごとにウィリアム・ブレイクのような超越した宇宙観が研ぎ澄まされ、自身の深層へと潜りこむように極端な抽象化の道を突き進んでいく。でも絶望じゃない。今起きていることをじっと見つめ、戦っている。

恩地幸四郎 扉[EX LIBRIS 死によりてあげらるる生] 1915

大正15年11月。『月映』は7号「告別」で終刊となり、最後に3日間だけの展覧会が行われた。田中は「告別」が出る前に亡くなっている。世間はスルーし、昭和に変わる時代の喧騒のなかで静かに忘れられていく。まるで夜明けの西の空に徐々に薄くなり、やがて透明に溶けていく月のように。

青春が青き春だなんてどこの国のおとぎ話か。きっと誰にでもある二十歳前後の孤独と漠然とした不安、敗北感、月を眺めて訳もなく涙を落とした頃。ままにならない理想と生活、でも生きていかなくちゃならない。青春とは、人生のままにならなさを心に刻みつける最初の季節なのかもしれない。でも若いから抗う。そんなことはないんだと、今はきついけど、きっとこの先には希望があるんだと、混沌の時代に底抜けに暗く静かに戦っている姿が『月映』の迫真の美しさなのかもしれない。

そういえばまもなく9月27日(日)は中秋の名月。満月は翌28日(月)とのこと。月の明るさは独りで泣くのにちょうどいい。たまには独り静か、自身の内側と向きあってみるとしようか。

2015年9月8日火曜日

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015


知っていることと、知らないことのあいだにどれほどの優劣があるのだろう。

例えばインタビューで、事前にある程度相手の方の仕事や著述について知っておくことが大切な場合もあるけれど、中途半端な理解と予定調和の質問に心のシャッターを早々に降ろさせてしまうくらいなら、潔く丸腰で飛び込んでいった方がよっぽど面白い言葉に出会えたりする。まあ相手によるけれど。

あなたは私のために、そして私はあなたのために、貴重な時間を分け合ってこの場にいるわけなのだから、取材する人は相手からできるだけ吸い取ろうなどと欲張らず、あるいはあらかじめこう書いてやろうなどと決めつけず、一期一会の邂逅を味わうくらいのつもりで、その場で自然に起こるやりとりに身をゆだねる方がお互いの人生にとって楽しいのではないか。ま、ま、相手によります。

それは美術に触れる時も同じかと思う。美術館の来場者のなかには、どうも何かを確認作業しているようなそぶりの人がある。新聞広告に載っていたあの絵、美術番組で見たなにか、あるいは誰かがつぶやいていたあれこれなど。作品よりも解説パネルのほうを熱心に読みながら順路を進まれている方もある。

「やっぱり思っていたとおり、あの人が言っていたとおり本物はいい。以上」。もちろんこれはこれで美術の楽しみ方である。人それぞれである。しかし既に与えられた知識や情報を指さし確認するためだけに現場に向かうのだとすれば、なんとなく、少々もったいない作業であるような気がする。

時には「モネを見にきたら、ホドラーという人の絵がすごくよかった」といった発見もあるだろう。その絵が人生を変えてしまうことだって。本当に楽しいことや驚きというのは、たいがい知らなかったことから生まれる。事前にできるだけ何も知らない方がきっとずっと刺激的だ。

というわけで、二度目の大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレである。前回、娘はまだ3歳で地元のサポーターの方に麦茶をごちそうになり「次にくる時は6歳だね」などと話していたものだが、おかげさまで元気に小1になりました。この芸術祭は本当に不思議なお祭りで、当初は美術を見ることがきっかけになるのだが、数日この土地に寝泊まりし、食べたり、過ごすうちにいつの間にか自分たちもこの景色の中に溶け込んでしまい、もうひとつの故郷に帰省してきたような気分になる。



特筆すべきはサポーターの方々のあたたかいもてなしぶりで、作品と作品の間にさしはさまれる皆さんとのささやかな交流が来訪者にとって大切な思い出となる。お風呂屋さんにいたまろやかな雰囲気のおじいさんや、広場でお漬物を振舞ってくれたおじさん、駐車場で声をかけてくれたおばさんの笑顔を忘れないし、きっと3年後も覚えていると思う。地元の人たちとの心の交換こそが替えがたい癒しであり、その喜びを味わいたくてまた出かけるようなところがある。

6つの町をまたぐ広大なエリアに300近くもの作品が点在しているため、効率的に数をおさえるなら事前にガイドブックで行程を決めて周るのがよいだろう。けれど、ガイドブックを見ると作品の概要を知ってしまうことになる。写真で見ちゃって、先述の「指さし確認」のごとき作業になってしまうのは悩ましい。1泊や2泊の限られた滞在時間では到底すべてを見ることはできない。それならばざっくりとした地図だけ片手に適当に町をさまよって、作品の看板を見つけたならなんだか分からないけれど立ち寄ってみる、というくらいのゆるい周り方がいい。



情報と先入観を放棄する。

すると何が起きるか。

なんだか、目にするもの全部、作品に見えてくるのである。

例えば、9月初旬から中旬ならばふっくらと豊かにみのった黄金色の棚田が、もうそれ自体が宝物のような風景画だし、笠を被って一人草刈りの作業をしているおじいさんときたら現代舞踊の小品かと思うようなたたずまいである。過疎のためか空き家になった保育園の建築も風情があるし、その横を素知らぬ顔でゆったりと流れる清津川も、岸辺でいっせいに揺れるススキの穂や茂みからのんびりと出てきて帽子にとまるのんきなバッタも、すべてが素晴らしい。



アーティストによる作品が設置されている家屋の向かいにある、あのなんでもない空き家にも実は何か作品が隠されているのではないか。そう、きっとあるに違いない。とにかく視界に入ったものすべてに対して反応してのけぞっているので、周りの人は「あの人は大丈夫か」と心配されたことであろう。しかし、それは私だけではないはずだ。

凝り固まっていた頭はゆるゆるとなり、息を吹き返した好奇心と想像力が腕白な子供のようにそこら辺を駆けまわる。触ったり、ひっくり返したり、側転したり。心がそんな風に遊び続けてやがて日が暮れて。少しさみしい気持ちでこの町を出発する頃、芸術とはアーティストと関係者だけのものではないという想いに至る。



おひさまが昇り、沈む。時には色々ありながら結局なんでもなく繰り返される今日という日。なんでもない営みのなか、作っては壊し、生きて死ぬというこの世の景色すべてが芸術であり、あなたはもちろん、このなんでもない私ですら、一人ひとりがふたつとないオリジナルの作品なのだと。何も知らない、真っ白な心だけがきっと気づくのだ。

だから大丈夫です。知らなかったために「目」の素晴らしいコインランドリーを見過ごしたとしても、時間がなかったために清津峡の倉庫で野菜のピザを作れなかったとしても。きっとほかの人が気づくことのなかった有形無形の作品をあなたはしっかりと見ているはずだから。


2015年9月2日水曜日

小泉誠「地味のあるデザイン」

近頃、「変わらない」ことに関心がある。

「こちらは相変わらずです」という挨拶の言葉。控えめで便利な一言だが、それを聞くと私は不思議な安心感を覚えることがある。会わない間に、その人が静かに積み重ねてきた実直な時間が感じられる気がするからだろうか。

日々のあゆみは思いのほか緩慢で、一日一歩進んだのかどうかもよく分からない。めまぐるしく変わっていく情勢や足早に先を急ぐ人々の背中を目の端にとらえながら、「私は私」と今日もまた、昨日と同じことを繰り返す。

短いスパンで考えれば特に変化のない日常に、周囲は「何もできていないじゃないか」とやきもきすることだろう。「一緒にやろうよ」と呼びかけてくれた人もあったが、いつの間にかいなくなっていた。決して非効率なことをしているつもりはないのだが。これが最善の方法だと思うし、これが私に「向いている」と思うからなのだが。

私がやっていることは、誰も満足させていないのではないかと焦ることもある。もっと変わらなければならないのだろうか、もっと、何か、こう、世間の速度や尺度みたいな器に合わせなければならないのだろうか。

しかし、私自身の能力や想いとは違うところで無理をすれば大概失敗に終わり、悲しみしか生まない。そのことを心底思い知るまで、いくつかのうんざりするよ うな後悔を重ねる必要があった。こんなことになるなら遠くを見すぎて無茶したり、周りを見すぎて焦るのはやめよう。今できること、今日できることしかできない。それが未熟なる私というものの器なのだから。

前向きに下(足元)を向くようになった。いつもと同じように私の周りを大量の情報が流れすぎ、時にはあの人がまた大きな仕事をやり遂げたという知らせもあったが、あえて見ざる、聞かざるを貫いた。とっつきにくくなった、と陰口も叩かれただろうが、それも気にしないように努めた。

気づくと、何年か経っていて、私と同じような時間や仕事の感覚をもつ人たちと知り合い、いくつかの仕事も形になっているようだった。ようだった、というのは私にも何が仕事の完成形なのかよくわからないからだ。今でもその仕事は続いているし、そもそもはじめから「これを作ろう」などと計画して取り組んでいるわけではない。人と話をしながら、その人が何を考えているか、何を必要としているか考えながら、キャッチボールをしているだけなのだ。

たまにいいアイデアが浮かんでドストライクを投げることもあるし、間違って相手にぶつけちゃったり、はたまた茂みに飛び込んでなくなってしまったボールもある。そんな風に何年も何年もキャッチボールを続けていたら、ある時その軌跡に何かが生まれ、羽が生えて、世に出て行ったものが「作品」とか「商品」と呼ばれるのである。

正直、できあがったものに執着はそれほどない。守る気もない。あとは誰かがいいようにしてくれたらそれでいい。それよりも、私はこのキャッチボールが好きなのだ。あの人やあの人とのキャッチボールが楽しくて心地良いから、次はもっといい球を投げられるように道具を磨くしフォームも研究する。すべて、これを相も変わらず続けていきたいだけなのだ――。


ごめんなさい。

ここまで書いておいて、これは私の話ではないのである。

私がいいな、と思っている仕事の在り方である。

そして、デザイナーの小泉誠さんの新著「地味のあるデザイン」(六耀社)を読み、頭に浮かんだことなのである。

ご自身三冊目の本になるという。長くお付き合いのある編集者やライターさん、写真家の方とともに、独立以来25年におよぶ活動を丁寧に紹介している。小泉さんにとってデザインとはおよそ机上でパソコン画面とにらみ合う仕事ではない。徳島で二社の家具会社と10数年来続けているワークショップのように、その土地に何度も赴き、そこにしかない景色のなかでじっくりと時間をかけて腹蔵なく語り合い、人間同士の関係を温めていく過程でようやく目鼻がついてくるものだ。

タイトルの「地味(じみ)」は、どちらかといえば消極的な意味合いで用いられることの多い言葉。一方で、「地味(ちみ)」は土地がもつ力のことを指す。農産物が元気に育つ豊かな土地を「地味がよい」「地味が豊か」などというそうだ。よい作物を収穫するためにはまず、よい土を育てることが大切。デザインと同 じくらい、言葉遊びもこよなく愛する小泉さんらしい、読者への問いかけでもある。



一見「地味」な装丁にも、プロダクトデザイナーらしい趣向とメッセージが込められている。