2016年7月25日月曜日

DESIGN 小石川



詳細は別所にて書くので、ここでは印象というか感慨について。

8年も前になる。五反田のビルで、建築家の芦沢啓治さんが呼びかけて有志のデザイナーたちと一緒になって「プロトタイプ展 vol.2」を開催した。デザイナーズウィークの前後だったか、只中だったか覚えていない。でもあの熱気は鮮明に覚えている。参加デザイナーたちは文字通り、自分たちのプロトタイプを、想いを、来場者一人ひとりに懸命にプレゼンしていた。リスクを負って、自分の責任の元にものをつくり、自分たちの言葉で伝えようとしていた。個々が活き活きとしていた。
「こういう場所があったらいいよね」と、あの時、芦沢さんは言っていた。

それから8年。芦沢さんが場所をつくった。ここには小林幹也さんもいる。580平米、築50年。最強じゃないか。オープニングには400人駆けつけたとか。本当はみんな、こういう場所を心待ちにしていたんじゃないか。
2年限定とのこと。いやいやそんなこと言わず、その先を見据えて、全力で応援したい。








漫画家が描く「夜のルーブル」

食わず嫌いなんてするもんじゃない、と改めて思ったものであった。

森アーツセンターギャラリーではじまった「ルーブル No.9 ~漫画、9番目の芸術~」(9月25日まで)がいい。


「ルーブル」「芸術」という側面から誘われる漫画の世界は、それまであまり親しんでこなかったような人(私のような)にもきっと響く。実際、十分楽しんだし、特に「バンド・デシネ」というジャンルに出会えたことも個人的には大きな収穫だった。

何より、日仏が誇る漫画家たちの無限の想像力には本当に驚かされた。「ルーブルから何かを感じ、それを漫画で表す」というお題に対し、彼らはイマジネーションの翼を見事に羽ばたかせて、時空や、重力や、あらゆる制約を飛び超えた。絵画でも彫刻でも映画でもない、ただ唯一漫画でしか成し得ない、時間と空間と物語の融合を見せてくれた。で、それを目の当たりにし、間違いなく漫画は芸術だ、と唸ったわけだ。今までごめんなさい!という気持ちでいっぱいである。

参加作家の多くが、ルーブルのなにかミステリアスな部分に興味を抱いているのも印象的だった。人々が芸術だと賞賛し崇める「昼のルーブル」ではなく、夜の展示室や地下室、作品に宿る精霊たち、それが見つめてきた歴史――。今まで光があたることのなかった、ちょっと怖い「夜のルーブル」(=芸術の裏側)に足を踏み入れられるのも、本展のみどころ。



2016年7月22日金曜日

学術と美術のあいだ


菊池敏正「対峙する客体―形態の調和と造形―」
2016年7月16日(土)ー 7月31日(日)会期中無休 入場無料


待望の、菊池敏正さんの個展である。かねてより、東京大学総合研究博物館インターメディアテクでの取り組みや、メグミオギタギャラリーでのアーティスト活動など、ひじょうに興味深く拝見してきた。

東京藝術大学で文化財保存学の博士となり、その後東京大学の特任教授を務めながらアーティストとしての活動も積極的に行っているという、ユニークなバックグラウンドと多彩な「顔」をお持ちの菊池さん。その作品のおもしろさは、ご自身が関わっている学術と美術のあいだにある「濃密な探究の時間」の抽出、とでも言えばよいだろうか。



かつての近代科学が神話や信仰と深く関わっていたように、学術(研究)と美術(創作)のあいだに実は本質的に隔たりなどないのかもしれない。どちらも理屈抜きに、ある対象の「美しさ」にとりつかれた人間の取り組みでしかないのではないか。例えば、菊池さんが幾何学模型をモチーフに制作した彫刻シリーズ「Geometrical Form」を眺めているとそんな人間の純粋な営みについて思う。

本展では、緊張感ある「Geometrical Form」シリーズを散りばめつつ、新作ではガラスの試験管によるコンポジション、土台に載せられたウニ、ジョセフ・コーネルのように額装された貝の標本など、「古物」というアプローチ。材料そのものには特別な加工を施していない。作家が「かたちのおもしろさで選び、収集した」ものだから、そのままを展示する。




軟体動物の化石をモチーフにした彫刻もある。身近にそれを研究している人がいて、教えてもらったそうだ。菊池さん曰く、「研究者にとって研究の動機は、そもそものかたちの美しさや理屈では説明しきれないものだったりする。何も知らない人がこの彫刻を見た時に、生物と思うか、数理モデルと思うか、それはわからない。そういったわからないところがきっとおもしろい。予定調和ではつまらない」。



幾何学模型の彫刻が並ぶなかに、ひとつだけ古いのこぎりが置かれている。気になる。漆芸という伝統的な方法でつくった幾何学のかたちと、ある時代ある場所でおそらくある民族の誰かが生活に必要な作業のためにつくった大きなのこぎり。どちらも既に役目をおえて静かに佇む物もののあいだに、息巻いて論じる余地など残されているだろうか。そこにあるのはただただ美しい、あるいは、ただただおもしろいかたち。だとすれば、私はその前に立って息を呑むだけだ。



THURSDAY NIGHT



今宵は、FRIDAY NIGHT.
というわけで書きます、ゆうべのZAZEN BOYS.

一言で言えば、常磐津の気迫だった。

奏者の呼吸、間合、気合、これをはずしたら誰かが地獄に堕ちそうな、崖縁の緊迫だった。

爆と静を緻密に織り上げていく。生きると死ぬを何万遍も繰り返し、ひとつの曲が殴り描く、人間という宇宙の大団円に向かって全速力で走り、走り、突っ走り、最後は一気に、収縮。無。

およそ音楽の感想文など適性がかけらもないのは四、五百も承知だ、恐縮。むむ。

確かなのは、陳腐な涙などではないと信じたいが、生暖かい水みたいな、どうもなにか細長い液体が、始終左の目玉の右の端からつつと垂れてきたのには弱った。うざったく、始終ぬぐった。


理由なんてない。ただ、差し迫る切迫が某の腺を圧迫したのだった。そして、帰宅すると発熱していた。頭や心を差し置いて、身体がいの一番に反応していた。かくして目出度く、今年初の夏風邪を引いた。



2016年7月8日金曜日

ビョーク・デジタル

そういえば、「Björk Digital ―音楽のVR・18日間の実験」(日本科学未来館、入場は日時指定制)に行ったのでした。7月18日まで。
内容は、今話題のVRのヘッドセットを装着して、ビョークの最新アルバム(3曲)を体感するというもの。そう。聴くというより、全身で感じるという作品です。

機器を装着すると、暗闇から一転して海辺の風景になり、そこにいます、ビョークが。思わず手を伸ばしちゃいそうな距離感で、二人に分かれたり一人に戻ったりしながら私に向かって歌い、微笑みかけてきます、ビョークが。時々いなくなるので心配になって後ろを振り返るとやっぱりそこにいて、安心して、だんだん変な気持ちになってしまいそうです(『Stonemilker VR』)。

2曲めの『Mouth Mantra』は歌っているビョークの口のなかに入っちゃいます。常々ビョークになら食べられたいと思っている人は、その夢が(仮想的)現実になるというわけです。それは素晴らしい体験ですが、同時になかなか壮絶でグロい世界観でもあります、歌うビョークの口のなかというのは。凝視するにはそれなりの覚悟が必要かもしれません。

そして最後の『Not Get VR』では、もうですね、私、光でできたビョークの中に飛び込んで融合してみました。そしてビョークの目の穴を通じて世界を見てみました。あと後半からどんどんでかくなる。ビョーク、どんどんでかくなります。でかくなって終いには4、5階建てのビルみたいになります。もうこうなると本物じゃなくてもよくなってきます。危険な兆候なのでしょうか。

以上、何を言ってるか全然お分かりにならなかったかと思います。説明は大変むずかしいのです。すみません。とにかくバーチャルの世界ではとんでもないことが起きているのです、信じてください!と言うしかありません。もしくは、実際に見てもらうしかありません。


VR体験が終わったなら、隣のシアターで大音響で上映されているこれまでのビョークのリマスター版MVを見ながらゴロゴロして過ごすのがオススメです(全部視聴すると約2時間です)。


2016年7月7日木曜日

映画

数十年ぶりに見た日本の映画が『ディストラクション・ベイビーズ』で本当に良かった。
ちょうどその日はホルモン関係の影響かと思うが、世の中や自分に対する不快感が最高潮に達していた。これをどうにかしなければならなかった。
久しぶりの日本映画ということで緊張しており、事前に映画館に隣接するキリンシティでハッピーアワー310円のビールで景気付けしてから挑んだ。
途中、後方の中高年のご夫婦は席を立った。さもありなん、さもありなん。一般的に「良い映画」なのかどうかは知らないが、少なくとも私の心には響いた。ストレス解消!みたいなのではなく、ああ生きている!みたいな感じである。
俳優もみんなすばらしく、特に那奈の素人的な狂気が際立っていた。音楽はもちろん、This is 向井秀徳。


あと、今日は水曜日でレディースデイだし、暇だしなんか見るもんないかとひじょうに安易に見た『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』がなんとも良かった。冒険映画ということでビールをLサイズにしたせいか途中ワンダーランドではなくドリームランドにすり替わってしまった箇所もあるが。終わってみると総じてこれは自分のために仕向けられた映画ではないかと自意識過剰に陥ったくらい良かった。
それぞれのキャラクターが見た目の珍奇さに似つかわしくなくいいことを言い過ぎるきらいがあった。いちいち覚えてはいないが、どの言葉もいちいちぐっときて泣きそうになった。
「到底お前には無理だよ」と言われている人や、そういう視線を感じながらもインポッシブルなミッションに取り組んでいる人には訴えるものがある。たぶん。



明るく狂っている

誰かがアメリカに行くと言って、それで思い出したんだけど、
東京オペラシティ アート・ギャラリーのライアン・マッギンレー見てきた。7月10日まで。若いお客さんたくさん。
絶景と裸。
確かに明るく狂っていて、おもしろくて切ない。
70年代生まれのクリエイターが40代になってから再評価されているというか、むしろ本当の旬を迎えているよね。若い時にちやほやされたのはよくある話なので。

60年代生まれはむき出し、80年代は遊牧。
その間で存在感薄く、どうも特徴見つけにくいイイ子ちゃんタイプが中年になって、その複雑な仕事ぶりがおもしろがられはじめている。
バブル崩壊の失われた10年に感性を矯正されて、表面的にはドライで整って見えるけど実は中身がドロドロしてて熱い。要は裏表激しい。そのギャップがおもしろい。ような気がする。



それから、話は全然違うけど、この人はブリストル。

ヴァーチャル視聴覚室のEBM(T)が新しいイシューを公開していて、これがとても綺麗で好きだ。まずアイデアが素敵だし、作業は緻密で、全体的にとんがっていてとにかく好きだね。サム・キデル。Googleデータセンターの建築空間をシミュレーションして、そこでヴァーチャルのライブパフォーマンスをしたんだって。今日もものすごい暑さになるようだけど、骨までキンと冷えるような、かき氷みたいな音楽。ビジュアルも綺麗。


この作品はアイオワ州、カウンシルブラフスに存在するGoogleデータセンターでのコンピューター音楽のライブパフォーマンスをシミュレートします。作品は2012年に発表されたアイオワ州Googleデータセンターの画像からインスピレーションを受け、その画像からアルゴリズム的に生成される音符やリズム、メロディーと、そこで起きるかのように生まれる音を形づくる意図的なインプットの間のダイアローグです。Googleサーバールームの写真から想像される建築プランを元に、ソフトウェアを使用し、空間の反響やその特徴をシミュレーションし、仮想空間に楽曲を流しています。 私はこれをミメティック(mimetic)*1 のハッキングのように考えたいと思います。アノニマスのようなハッカーグループが模倣したウェブサイトを作り、そのコンテンツに干渉したり弄ぶかのように、私は、完全に保護されたこのデータセンターの実寸法を仮想空間に投影し、コピーである壁に音を反響させる。(EBM(T)サイトより)






2016年7月5日火曜日

芸術に関わる人は、個を貫け。自分の頭で考えろ。



飼い慣らされることを拒んで自分の生き方を選んだ。

誰も守ってくれない。丸裸になるリスクを厭わず、自分の王国を作りあげた。

誰かと一緒に音楽をやるのに言葉や契約は要らない。要るのは直感だけ。

誰かをぶん殴ったり、愛するのに、言葉や契約は要らない。要るのは直感だけ。と同じ。

創造とは既存の何かを脱ぎ捨てること。


This is 向井秀徳。



ライブでギターを客席に放り投げて「いいから弾け」と促した。

それに応えない真面目な素面は忘れ去られて、

弾けもしないのにステージに立った酔っぱらいは乾杯された。

拓郎や泉谷は好みではない、と言った。

創造とは既存の何かに喧嘩を売ること。


This is 向井秀徳。