2017年2月2日木曜日

無題

なんてこった。2月になっちまったというのに、15本の原稿を書き上げなければならんというのに、(まるで売れっ子みたいじゃないか)たったの1本しか手をつけられていない上に、小1時間走った後に空ける缶ビールのうま味を忘れられない上に、あろうことか、このタイミングでチャールズ・ブコウスキーにドはまりした。

窓の外で蜜柑を喰らうヒヨドリに向かって延々と文句を言い続ける猫。奴と同じ八割れ猫柄のセーターを被ってだ、新春に満を持して贖った無印の電気炬燵に肩まですっぽりと収まる。炬燵の上では暇になった相棒のMacが星野源を流している。俺はまだ周辺の女子のように源に屈してはおらん。相棒は電池を持て余し、俺は耳の穴を持て余しているから流しているだけだ。ただし源は火葬場の炉をストーブと呼ぶあたり、センスある。特にこれといったセンスのない俺はアマゾンの箱が来るのをひたすら待っている。ああそうとも。凡人の人生はいつだって神(ゴッド)を待ち続けるしかない。

俺たちはさんざん待った。俺たちみんな。待つことが人を狂わせる大きな原因だってことくらい、医者は知らんのか?人はみな待って一生を過ごす。生きるために待ち、死ぬために待つ。トイレットペーパーを買うために並んで待つ。金をもらうために並んで待つ。金がなけりゃ、並ぶ列はもっと長くなる。眠るために待ち、目ざめるために待つ。結婚するために待ち、離婚するために待つ。雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ。食べるために待ち、それからまた、食べるために待つ。頭のおかしい奴らと一緒に精神科の待合室で待ち、自分もやっぱりおかしいんだろうかと思案する。(チャールズ・ブコウスキー『パルプ』ちくま文庫、柴田元幸訳)

こんな風に『パルプ』には(俺にとっての)名言で溢れている。ほかにも「たとえば、すべては無意味だと考えるとする。でもそう考えるなら、まったく無意味ではなくなる。」や「人間なんて野菜だ。俺だってそうだ。自分がどんな野菜かはわからんが。気分としてはカブだ。」や、ここにはどうも書きにくいような先鋭的な悪態など、少なくとも14カ所くらいに線を引き、折に触れて反芻している。


遂に、待ちに待ったチャイムが鳴った。今日は『勝手に生きろ!』と『死をポケットに入れて』が届く。意識したのではないが、生と死が同時にやって来た。で、まず、死のほうを開いた。競馬中毒の酔っぱらい、自称“老いぼれ”詩人の筆が冴えまくっている。「わたしは気が触れてはいないが、さりとて正気というわけでもない。いや、恐らくわたしは気が触れているのだろう」。俺も自らについてこう言える老人になりたい。それにしても一体どれだけ酒と競馬につぎ込めば、『魂の箍(たが)がはずれすぎて、獣と暮らしてもなんともなくなった男の告白』といったタイトルを作品につけられるようになるのだろうか。ものを書く以前に競馬場に行くところから始めるべきではないか。そう思ってJRAのサイトを開いて今後の予定を眺めてみるが、まだ実行に移すまでの強い興味が湧いてこない。もうだめだ。どうがんばっても、凡人の域をちっとも逸脱できそうにない。今日はもう諦めて、仕事をしないことにした。全部あんたのせいだ、ブコウスキー。