2016年3月17日木曜日

シンガポール雑観


シンガポール最終日の夜に、現地のデザイナーを取り囲む宴に混ぜてもらい、市内のサードウェーブスポット“ティオン・バルー”にある英国風味漂う秘密のサロンで夜更けまで楽しく過ごした。

案の定、翌朝寝坊をした。カーテンの隙間から突き刺す日差しに驚き、文字通り跳ね起きたのが飛行機の出発時刻2時間前。前日にあらかた荷物をまとめて置いたのが救いだった。顔も洗わず部屋を飛び出してエレベーターのボタンを連打した。

「早くしてほしい、日本に帰れない」

よほどの剣幕だったのか、フロント女性が握るペン先が震えていたのには申し訳ないことをした。手続きを終え、女性が「よい1日を」と言いかけた時には、荷物もろともゴムボールよろしく転がる勢いで出口を駆け抜け、ベルボーイの制止を振り切ってそこに停まっていたタクシーの窓を叩く。

シンガポールのタクシーは料金が安いこともあって特に中心部で流しをつかまえるのは至難の業である。その辺のホテルの入り口付近で待ち構えるほかないが、そこにも行列ができているのが常だ。それに関係あるのかどうか、気持ちに余裕があるのか、はたまた国民性なのかは分からないが、運転手は概ね朗らかで人柄もよさそうである。

今日に限ってはまったく待たずにタクシーに乗れた幸運に感謝しながらトランクを運転手に預けた。財布の10ドル札3枚を示し、「これしかないが、空港にいけるか」と尋ねると先方は笑顔で親指を突き出したので、これで不安はすべて解消されたと胸をなで下ろした。空港までは30分かからない。チェックインや保安検査が混雑していなければ余裕でゲートにたどり着く。コーヒー飲める。そして日本、帰れる。

屋外の蒸し暑さと効き過ぎる冷房のギャップにも身体は既に順応していた。車は、短い滞在期間中に汗を流しながら行き来したさまざまな施設や会場、店々を今一度おさらいするかのように通り過ぎ、海辺に出たところで高速に乗った。来た時には思わず目を見張った高層ビルや異形の建築物、色とりどりの集合住宅にも目が慣れて、それらが視界から離れていくのが惜しい気持ちになった。

過密都市において建築はやはり上を向いて行かざるを得ない
気鋭の建築事務所Buro Ole Scheerenによる「DUO」プロジェクト(2017年竣工予定)。
リノベーションも盛ん。ナショナルギャラリー(設計はStudio Milou Singapore)
シンガポールを代表する建築事務所WOHAによるホテル「Parkroyal on Peckering」(2013年竣工)は数々の建築賞を受賞。緑化、雨水利用、循環型。トロピカルという気候を最大限に生かす。資源のない国にとってエコロジーとエコノミーを両立させることは必須の条件

目を見張ったのは急速な都市開発の様相だけではない。建国からわずか50年、国が育ち盛りの子どものように触れたものすべてを取り込み、それらに反応して自ら表現し、発信をはじめている。都市そのものからむくむくと勢いよくわき上がるクリエイティブの高気圧、ここで生きる一人ひとりにみなぎっている自信のようなものに目を見張ったのである。

建国50年といいながらも彼らには基盤となるマレーの歴史がある。その上に中国、インド、イギリスの血が混ざり、気候の特性と相まって文化や精神性を築いてきた。シンガポールの人は常にアイデンティティを問う。幾たびもの戦いによって翻弄された歴史を問う。国の内側にいながらにして、外部の目線を持ち合わせている希有な国。自分たちは何者か。どう生きるべきか。生まれた時から強いられる問いがこの国を見つめる鋭い視線を養う。そこに高度な教育が加わり、シンガポール人が育つ。

シンガポールは天然資源をもたない。水もないのでものをつくれない。それゆえこの国のリソースは金を生み出すための頭脳と感性、ソフトパワーである。隣国にものをつくってもらうためのコミュニケーション力である。すなわち、デザインである。政府はここ10年でデザインの人材を育てるために多大な力と金を注いだ。少しずつその成果が芽生えて育ちはじめ、30代から40代の若い世代がシンガポールのクリエイティブを牽引している。

03年に設立されたシンガポールデザインセンターのアーカイブを覗いたが、中身はほとんど空っぽだ。つまり前例や先達が存在しない。すべてがこれからである。翻って日本のデザインの歴史60年、若いデザイナーに「もう、ものなんかつくりたくない」と言わしめる状況からしたら、これほど興味深いフィールドがあるだろうか。

開発中の都市、それを待つ建物、空き地

異文化が混交する環境に育った根っからの国際人にとって世界は狭くシームレスである。彼らにとってシンガポールは地球のなかの一つの都市であるにすぎない。巧みな英語とネットを駆使してフットワークよくどこにでもアクセスし、仕事も取ってくる。日本の産地にも来ている。とにかくセンスがいい。表現だけでなく、商才という意味においてもだ。

彼らのうち何人かは既に世界を舞台にいくつかの成功を手に入れると同時に、自分たちのアイデンティティ、“生きる道”を確信しつつあるようにも見える。彼らはこれからヨーロッパにもアジアにもなかった新しいデザインの手法やスタンダードをつくりだしていくだろう。

シンガポールアートミュージアムでの展示。ボランティアから血を集め、犠牲の歴史をテーマにした作品
チャイナタウン
チャイナタウンのホーカー(フードコート)


そんなことを考えていたら、タクシーが車線をまたいで左右にいったりきたりしていることに気づいた。スピードが速くなったかと思えば極端に遅くなり、後ろのトラックが苛立ってクラクションを鳴らした。嫌な予感がしてバックミラー越しに運転手を見ると、その両目は完全に、つまり100パーセント閉じられていた。簡単に言うと彼は眠っていた。タクシーは空港ではなくあの世に向かって疾駆していた。

「ちょっと、あなた、起きて」

その肩を激しく叩くと眠れる獅子は静かに目覚めた。そして何事もなかったかのように車線の内側に戻り、「日差しが強くてどうも」などと言った。こちらはすっかり肝を冷やし、シンガポールデザインについての考察どころではなくなった。その後目に入ってきた景色はまったく覚えていない。車内のラジオからはパーソナリティーが「スローモーションバスケットボールなんてのがあったらおもしろいね、ハハ」と陽気に話す声が聞こえたが、そんなことはどうでもいいから、ただただ無事に日本に帰らせれてくれ、と念じるのみであった。

タクシーはなんとか空港に到着して事なきを得た。釣り銭をもらう時間が惜しかったため、居眠り運転に対して相当なチップを支払うかたちになったのは不本意だが仕方がない。ただ運転手の穏やかで動じない性質と、生きて日本に帰れることへの感謝のお布施と思うことにした。

余談だが、空港の待合では、手元に残ったわずかな現金で土産物のマグネットを買った。多数のバリエーションがあるなか、構図の大半を湾岸の超高層建築群が占めているのが印象的だ。かつてのマーライオンは隅っこに申し訳程度に描かれているか、その存在すらないものもあった。実際、私もタクシーの窓から水を吐き出す小さな後ろ姿を見かけたにすぎない。現地のデザイナーは「もはやマーライオンだけがシンガポールではないのです」と言った。言い換えるなら、マーライオンというつくられたイメージを乗り越えていくことが、シンガポールデザインのこの10年の努力であったのかもしれない。


さて。引き続き、ゆっくり書いていきます。