2017年5月23日火曜日

REI


地球上のどこかで、同時に呼吸をしているというのに、まみえることの恐らく叶わない、だけど無意識のうちに憧れてやまない、ある女性の言葉とドローイングに、無謀にもシンクロを試みている。ほとばしる赤。腑抜けた自分に気合を入れるため。


もっと強くなりたい。挑んでも、挑んでも、敗北感にさいなまれる。40年間服をつくりつづけながら、一度も心から満足したことがない。満足するのが怖い。満足してはならない。満たされたら、そこできっと創造が尽きてしまうから。

だから自分の前に壁を建てる。より高く、より厚く、より無情な、とても乗り越えられそうにないような壁。これを越えるため、怒りや不安、恐怖、痛みをエネルギーに変える。そして乗り越えたら、乗り越えてしまったなら、また新しい壁を建てる。限界や境界の先にしか、誰も見たことのない新しいものは存在しないから。



すべて私の勝手な解釈と妄想。
虚空のなかに見いだすのは、頼りない自分の顔。
本当のことを知りたければ、コム・デ・ギャルソンを着てみるしかない――

(ニューヨークで開催中の展覧会について、彼女は当初、服を来場者に触れさせようと提案していた[図録より]。が、美術館側の“セキュリティ上の理由”で退けられた。実際にさわれるかどうかはともかく、タンジブルを実装できないファッション展やデザイン展の限界はそこにある。店に行けば好きなだけさわれるからだ)

――すると、完璧な戦闘服のようだと思い込んでいたそれは案外、このみっともない人体を抱きしめるための、強さと繊細さをあわせもつ繭のようなものなのかもしれない。



2017年5月19日金曜日

五月病

作業を放棄し、夕食の買い物ついでに散歩に出た。半時間ほど前の雷雨は西へと流れ、頭上の空は柔らかな日差しを取り戻しつつあった。

住宅地の庭にわを見やると、強烈な雨粒に打たれた薔薇の花びらが地面に落ち、鮮やかな絵具をまき散らしたようになっていた。天の寵愛を受け、この世のすべてを手に入れたかのごとく咲き誇っていた薔薇も、散り際はあっという間。時代はあらゆる栄華を忘却し、少なからぬ冷酷をもってうつろう。弥生の雨が新緑を連れてきたように、皐月の雨がまもなく次の季節を連れてくる。新しい若葉は日毎に濃く、その周辺であらゆる生き物が伸び盛りの生命を謳歌。たっぷりと水を抱いて嬉しげなそこかしこを眺め歩くうち、ようやくこちらの気分も少し軽くなった。

なにしろこの一週間、あらゆる点において重い日々を引きずっていた。読まれなければ商品価値のない駄文を懸命に捏ね繰り回し、「美女と野獣」も観ずに孤独の作業のなかに自らを幽閉していた。「届けなければ」と使命感の手綱を引き締めるが、いっこう進まぬ馬、否、筆。焦る。このまま闇雲に己を駆り立てたところで到達する先も見えぬ。で、ふて寝。世間はこれを五月病と呼ぶのであろうか。

哀しみ、悲哀、切なさ、やるせなさ。
心の空白、悲痛、メランコリック、やるせなさ。

駅前から続く「ニコニコドーロ」なる小径を仏頂面で通過しスーパーへ。ここは主婦の束の間の欲望を満たすスーパーマーケティングマーケット。狂気の電子音と赤札が消費者を盛大に鼓舞し、財布の紐を弛緩させる。我が目下の興味関心は四時を回り、全身白衣の鮮魚係によってもったいぶって三割引きシールが貼られた寿司の折り詰めを手に入れることだ。

当初、梅のつもりが、「あら三割引きなら」と松も選択肢に入ってくる。本来、竹のあるべきスペースが空になっているのはスーパーマーケティングが仕掛けた一手か、あるいは葛藤の末に中庸を選んだ主婦の涙ぐましき理性の痕跡か。であれば「考えもなく松に飛びつくのは尚早」と、冷蔵ケースの前でネタの差分と価格の均衡についてしばし考えを巡らせる。

「得したい」と「損したくない」ではどちらが建設的な態度であろうか。結論が出ない代わりに、「人生とは待つことである」という脈絡なき一文が思い浮かぶ。であればやはり松の一択と手を伸ばした瞬間、背後の老婦人が最後の一折に手をかけた。ノン、マダーム。声にならぬ悶絶を飲み込む。人生とは。前言撤回、「人生とは生き埋めである」と己をなだめて梅を確保。とはいえどうにも口惜しいので、隣に遠慮がちに並んでおった百円引きの鮭といくらのちらしもかっさらって籠に収めた。


空晴れて、安売りの寿司を贖った。ただそれだけ。悩むことなど、一切あらないよ。



2017年5月16日火曜日

2017年5月13日土曜日

真柏

生きながら、死んでいる。
死にながら、生きている。