2016年11月8日火曜日

アルスシムラのこと

南青山のTOBICHI 2や外苑前のifs未来研究所で開催されていた、アルスシムラによる展示が6日までだったので、最終日に駆け込んできた。

2015年に設立されたアルスシムラは、染織家で人間国宝の志村ふくみさんとその長女・洋子さんによる学校だ。染織の基本的な技術や考え方を習得することを目的とし、生徒さんは1年間かけて植物による糸染めと織りを学び、最終的には自分だけの着物を仕立てる。学校は京都・岡崎と嵯峨にあり、嵯峨校の2年コースでは藍染めのための藍建てにも取り組むそうだ。11月3日に「atelier shimura」というブランドをスタートし、着物はもちろん、小裂の額装や画帖、草木染めのストール、ふくさや名刺入れといった商品を展開している。本展はそのお披露目の場でもあったのだ。



3、4年ほど前だろうか。汐留のパナソニックミュージアムの工芸展で志村ふくみさんの作品を拝見したのが最初の出会いだった。友禅染の森口華弘さん、ご子息で継承者の森口邦彦さん、羅の北村武資さんといった方々の染織作品とは少し離れるようにして、たしか型絵染の芹沢銈介さんや木工の黒田辰秋さん、陶芸の富本憲吉さんなどの作品が並ぶ空間のそばで志村さんの着物が展示されていた。海辺の風景をそのまま織り上げたような、静かでありながら力強い生命感に惹かれたのを覚えている。当時は「なぜ染織カテゴリーのなかで展示されないのだろう」と少し訝しく思ったものだ。後に、志村ふくみさんにとってこうした民芸の方々との交流がひじょうに大切な意味をもっていたことを知り、あのように領域を超えた展示にも納得がいくのであるが(もちろん展示空間の都合でもあろう)。

それ以来、私は志村ふくみさんとその魂を受け継ぐ長女・洋子さんの活動を、“どっぷり”とではなくとも、なんとなく追い続けていくようになった。近頃は独学ではあるものの着物に触れたり実際に着たり、染織の歴史や産地に興味を持って調べたりするようになったのも、あの時の多少違和感をはらんだ印象的な出会いの延長線上にごく自然にやっていることなのだと思う。

世田谷美術館での大規模個展「志村ふくみ―母衣(ぼろ)への回帰」(こちらも昨日6日まで)についても書きたいことはたくさんあるのだが、ひとまず6日のことだけ備忘録的に。

いうまでもなく「atelier shimura」の作品はどれも素晴らしく、家族を待たせているのでなければいくらでも長居してしまうところだった。そこにあるものを1つひとつ目に焼き付けようとして、もしかしたら全身から異様な緊張感を放っていたかもしれない。背中からやさしく声をかけてくださった方がいらした。若い女性の方。雨上がりの空にかかった柔らかい虹のように、光から糸を紡ぎ出して織りあげたかのような美しく繊細な着物をまとっていらした。すぐにそうとわかったので、「アルスシムラの生徒さんですか。ご自身で織られたのですか」と尋ねると、その方は顔を赤らめて嬉しそうに「そうです」と微笑まれた。

「とてもよくお似合いです。どうしたらそのような色をつくれるのですか」と問えば「先生方とご相談しながら、また色々なご縁もあってこのような色になりました」とのこと。「普段私が着る洋服にはこういう淡くて明るい色のものはないんです。だから私自身にとってもこういった色と向き合うのは新鮮でした。着物だから挑戦できたのかもしれません」と話してくださった。着物の効果も相まって、その方の笑顔がとても輝いて見えた。着物って着る人と一緒になってはじめて完成するんですね。なんて当たり前のことを改めてしみじみ思いながら、ついつい目でその着姿を追ってしまった。本当に素敵だったので。

それからifs未来研究所の展示では、アルスシムラ一期生の方とお話することができた。その方もまた、こちらの気分まで温かくなるような優しい色合いの着物をまとわれていた。聞くと、1年のコースでは到底足りず、その後も志村先生の元で修行を続けていらっしゃるとのこと。「もともと染織をされていたんですか」と尋ねると、その方は「いいえ、まったく」と顔を横に振られた。「生糸に触れたこともありませんでした。一期生は12人だったのですが、半分以上が未経験者だったんです」。すべてイチから学ぶとなると授業もさぞかし厳しいのでは。「私も最初は不安だったのですが、そんなことはありませんでした。もちろん染織の技術を学ぶことは基本です。でも技術だけではなく、自然のことやそのなかで人間が生きることについて深く教えていただいたような気がします。生徒さんは10代から70代まで色々な方がいらして、皆で1つの卓を囲んでお弁当を食べながら色々な話をしたり。皆で一緒に取り組む、ということがこんなに楽しいなんて、初めて知ったようでした」。

それから作品をご紹介いただきながら、その方は仰った。「私が志村先生の着物にふれた時、不思議な懐かしさを感じたんです。日本人としてなんだか懐かしいと」。聞けば聞くほど興味がむくむくと湧き上がってくる。着物はもちろんだけれど、それよりも生徒さんたちのこと。全国各地から志村さん親子の元に集まってくる女性たちの思い。なかには、今までの環境やキャリアをすべて投げ打って新しい土地に住み、その門を叩いた方もあるだろう。厳しい染織の世界ではそれだけで食べてゆける作家は人間国宝を除いてはほとんどいないと聞いたことがある。“作家”になりたい、というだけであれば学校ではなく、別の道に進んだ方がよいかもしれない。

おそらく彼女たちはそうではないのだ。なんでもない日常のある日、突然出会ってしまった志村さんの着物、そしてその著作に触れることでとめどなく溢れ出てくる「もっと知りたい」という気持ち。何について? 自然のこと、生きるということ、ものをつくるということ、私あるいは女性ということ。求める答えは各自異なるかもしれないが、糸を染めて織る、という行為(生活)のなかでそれを見出したい、ということもあるのではないか。彼女たちが自分自身と向き合いながら織りあげた、混じりけのない色合いの着物を眺めながら、そんなことを感じたのである。

「今日は最終日なので、よかったら羽織ってみてください。触れてみてください」と仰っていただき、ああ、できることならそうしてみたかった! 着物と人はひとつになってこそ。でも今日は諦めます。今日で終わり、という気がしないのです。きっとまた、そういう機会がきちんとやってくるような予感がしているから。




2016年11月5日土曜日

都築響一さん

先週、高円寺の書店で開催されたトークイベントで、念願の都築響一さんの話を聴くことができた。

フリーランスの編集者として長年活躍した後、秘宝館やラブホテルをはじめ、デコトラ、ヤンキー、スナックといった「(興味はあるけど)あまり取材とかしたくないような」場所や人の元に赴いてレポートする活動を続けていらっしゃる。木村伊兵衛賞を受賞した写真家でもある。サブカルともストリートともつかぬ、“道ばた(ROADSIDER)”をこつこつと旅する、そのお仕事ぶりは唯一無二だ。

2012年にはブログを購読制のメールマガジン「ROADSIDERS’ weekly」としてリスタートし、書籍版「秘宝館」「LOVE HOTEL」のデータをまるっと収めた電子書籍(ダウンロード版、USB版)などをご自身オリジナルのメディアとして発行された。今や「紙の本にはまったく関心がない」と都築さんはきっぱり。

実は、私も自費出版の媒体みたいなことを考えておりまして。「リトルプレス」や「ZINE」なんていうとちょっと聞こえがいいけれど、お金かかるし、何部刷ったらいいのかも分からない。どうしたものかな、と悩んでいるところだったのだ。なので偶然とはいえ、都築さんが「電子がいい。電子しかない」と断言するその力強さに思わず「そっか!」と開眼したような気になってしまった次第。

決して紙のメディアを否定するわけではない。都築さんご自身ずっと雑誌の編集に携わってきたのだから愛着もおありになることだろう。しかし、だからこそ電子書籍がよりいっそう自由で、ご自分の活動スタイルに向いていると実感できるのかもしれない(ご本人は「いやいや個人ではそれしかできなかったので」と謙遜されるが)。電子の「秘宝館」は777ページでなんと1.8Gバイト。そこには大量の写真が収められている。紙媒体ではスペースが限られるため、大量の写真からベストな数枚を選ばなければならない。従来なら、そこに編集者の美学と哲学が凝縮されるはずでは。

「だけど僕は全部載せたい。読者だってきっと細部まで見たいはずなんですよ、秘宝館とか特に」。選ばない、という選択肢。全部まるっと載せちゃえ。高解像の画像を存分に拡大してじっくり見てもらったらいい。「今、ほとんどの写真がデジカメで撮られていますよね。だとしたら、それを表示するならデジタルのディスプレイが最も適しているはず。つくり手の思いをそのまま伝えられるのが電子書籍だと思うんです」。そもそも、紙の写真集で700ページといえば1冊7万円くらいになってしまうそう。電子書籍なら3,500円(税別)。それによって、もっともっと多くの人が“本”を手にすることができる。

出版の電子化は、編集者と読者の関係も大きく変えた。「皆さんが購読することで、僕の活動に対してお金を払ってくれていて、僕はそのお金でみんなが行けないようなところに行き、取材して、フィードバックする。読者というより、サポーターみたいな感じでいてくれるんです」。だから電子書籍ながら「手売り」が基本だ(もちろんROADSIDERSのオンラインショップ、書店などでも販売されています)。最後届けるところはアナログなんですね。「USB版とダウンロード版があって、USB版はイベントなんかで僕が手売りするんです。これまでに2000個くらい売りました」。

「秘宝館」のUSB版は小さなピンク色の缶のパッケージに入っていて、ちょっとした仕掛けもあってかわいらしく、「もの」として所有していたいような価値がある。友達にプレゼントしたっていいんじゃない。ダウンロード版(2,000円)は、遠方のため直接買うのが難しい方への対応策とのこと。実際は、USB版の方がダウンロード版よりも断然売れているそうだ。データはPDF形式なのでリーダーやデバイスのフォーマットに依拠しない。驚くことにコピーガードさえかけていない。コピーしてもらって構わない。守ったり囲い込んだり、そんなケチくさいことする間にもっと新しいネタ取材するわ。そんなオープンな姿勢を徹底的に貫いている。


「かつての出版では編集者 vs 編集者みたいな戦いが繰り広げられていた。今、僕にとってのライバルはアマチュアの人なんです」。その日の会場内にも、そういう方がいらっしゃるとかで、その方は世界中を旅して「珍仏」をコレクションしているのだそうだ。本業は別のお仕事をされているので一応アマチュア。しかしその知識やフィールドワークなど、プロの研究者にも劣らない内容だという。「こういう人たちとどうやりあっていくか。方法はたった1つ。ひたすら量をこなすしかありません」。

量。すなわちアマチュアよりもたくさん見る、アマチュアよりも遠くへ行く、アマチュアよりも危険な目に遭う! 要は、どれだけ自分の身を削れるか。それがプロとしての最後の砦というわけだ。誰も守ってなどくれない。業界、肩書、経歴など一切関係のない、過酷なフリーランスの世界。それでもやるって言うのなら、どこにも属さず、1人でやるって決めたなら、かっこつけてる場合じゃあないんだよ・・・都築さんはそう言葉にしたわけではないけれど、なんとなく凄みみたいなものを感じてしまったのである。

柔和な語り口と、ほわほわっとして、きっと目の前に座っていたらなんでも喋ってしまいたくなるだろう。そんな風貌と雰囲気の都築さんだが、その本質はきっともんのすごい骨太な覚悟のかたまり。ですよね。「好き」を貫くって、並大抵じゃないですよね。何かいいティップスを期待してふらふらと出かけ、「お、電子書籍私にもできそうじゃん」なんて調子に乗りかけたものの、最後に「なめんなよー」と返り討ちに遭ったような気持ちで書店をとぼとぼと後にしたのだった。でもすごく楽しかった。気合い入れて出直してきます!




2016年11月4日金曜日

昨日、ka na taのえんげき「きゅう」を見て



昨日、ka na taのえんげき「きゅう」を見て


ああいうものを見せられて
微動だにせず
まるで何も見なかったかのように
無言無視の闇に思考をほふることはかえって卑劣と考え
こうして昨夜のことをたぐり寄せている

確かに思うのは
芸術の本質のひとつは己自身をさらけ出す、ということである

今の世にあたりを見回せば、そこらじゅうそれっぽいものばかり
それっぽい服
それっぽい空間
それっぽい文化
それっぽい人たち
ああもう辟易だ

つくるほうも、求めるほうも
わかっちゃいるのにやめられない、暗黙のそれっぽさ

だから
ああいうものを見せられて
腹の傷から臓腑を引っ張り出してのたうち回るかなたの、叫ぶかなたの
さらけ出している、としか言いようのない
それっぽくない態度の壮絶さに
まず腰が引けて
目が白くなって
背中が強張って
そしてだんだん腹が立ってきた

「お前は演劇なんかやらずに服をつくっていればいいんだよ」

人にはそれぞれ期待される役割というものがある
特に長いことやっていれば
周りは勝手にそういう枠組みを構えてその人をとらえて閉じ込めたがる
そのほうがお互い安心なのでね

デザイナーはデザイナー、役者は役者、モデルはモデル
与えられた役割をこなしていりゃあいいんだよ

だけど人間は複雑なものだから
刻々と変わっていくものだから
もちろん欲だってあるから
もう少しだけ幸せになりたいと願うから
枠組みをぶっ壊したいし
無に帰したいと思う
そこからもう一回はじめたいんだ

かなたは「えんげき」でそれを実行しようとした
いつの間にか着込んでいた服を一生懸命になってひきはがし
もっとも信頼する大切な人たちに次々とつかみかかり、試し、傷つけようとする
そうしながら、もう一度生まれたい、生まれたいともがいていた
「きゅう」とはかなた自身のことだ
きゅうの次はゼロ
ゼロになりたい
無になりたい
そこからもう一回はじめたいんだ

一方、私は目の前で起きていることに憎しみを覚えた
そんなことは到底受け容れられない
世の中はそんなに甘くない
今すぐ仕事場に戻って、与えられた役割の続きをまっとうにまっとうしなさい
人生は一度しかないのよ
やりたいことなんかやる時間はありません

私のなかで明るみになったどす黒い嫌悪感が私の身体を侵食しはじめた
ドロドロとした毒液が目だの口だのそこかしこに染み渡ってきていやな感じの鳥肌に覆われる
後味の悪い夢を見た後のようだった
一刻もはやく、逃げるようにして家に帰りつき
理由なき不快を数杯の水割りで流し去ろうとした
ああいうものを見せられて
突きつけられて
私はもう知らない


ところが翌朝目覚めると
いつもより澄みきった透明な陽の光が私の身体を包んでいた
傍らの猫と目が合った
おはよ
だいじょうぶもう起きるから
不思議と昨夜とは違う感覚が生まれていた
悪いものをすっかり出し切ったような
完全敗北を喫してむしろ心地がいいというような

ものすごい戦いの後の野原で骨だけになって横たわっているみたい

そしてこうして文字を連ねながら
ようやく気づきかけている

かなたの「えんげき」につられてさらけ出してしまったのは
ぶっ壊されてしまったのは
それっぽいこの私自身ではなかったかと







追記
かなたは「なにをつくっても暗くなるんだ」と言ったが
結果的にこれは希望の「えんげき」です
プールでのショーのときは、ファッションが服を脱ぎました
そして今回の「えんげき」では、見る人自身がきっと


受けて立った一人ひとりのキャストもすばらしかった


2016年11月3日木曜日

不思議なジュエリーデザイナー、インドラさんの個展「インドラ・マン・スヌワール展」

先日、インドラ・マン・スヌワール(Indra Man Sunuwar)さんという不思議な人にお会いした。

今年の夏、表参道にあるセレクトショップ「水金地火木土天冥海」(愛称、水金)で、とある願掛けの意味合いもあってブラックダイヤモンドのリングを購入した。採掘してカットしただけというナチュラルダイヤモンドはティアドロップ型をしていてゴールドのリングに横向きに配されている。天然ゆえの不純物がかえって唯一無二の陰影を生み出していて、すっかりその景色に吸い込まれてしまったのだった。スタッフの方が、「それはインドラさんというジュエリーデザイナーの方が制作したのです」と教えてくださった。

ブラックダイヤモンドはその時の私の頼りない精神を力強く励ましてくれ、今も、初めての人と会う時やちょっと頑張りたい時には意図的に身につけるようにしている。私の「相棒」みたいなリング。だから、親しいフリーランスPRの女性から「インドラさんを紹介したいの」と声をかけてもらった時、正直色々な締め切りがあって引きこもりムードだったのだけれど、即座に「参ります!」と返事した。インドラさんに相棒リングに出会えた御礼を伝えたかったのと、ご本人に石の話を伺ってみたかったからだ。


水金のフロア奥のジュエリーコーナーで、インドラさんはいつも水金のブログで拝見するのと同じように小さめのストローハットを頭に載せ、テーブルいっぱいに広げたケースの上で飛び跳ねるように輝く石たちに守られるようにして座っていらした。日本とのご縁も深く、ネイティブのように日本語をお話しになることは存じ上げていたので、私はすぐに人差し指の相棒をお見せして御礼を申し上げた。インドラさんは嬉しそうに笑ってくださった。

そう。本当は、石の話をたくさん伺おうと思っていたのだ。ジュエリーといえば、ハイエンドでエレガントなファッションや敷居の高い世界ばかり思い浮かべてしまうのだけれど、その本質は鉱石である。私は、科学博物館に行けば鉱石コーナーでしばらく過ごすのがお決まりなくらい、地球が何万年もかけてつくりだす鉱石や化石が好きだ。ファッションというよりは、サイエンスや考古学の世界としての石。インドラさんがつくりだすジュエリーは、確かにジュエリーには違いないのだけれど、なにかその言葉のイメージにはまらりきらない、なんというか、「永遠の男の子が追いかけ続けているロマン」みたいな雰囲気があるような気がしてならない。代名詞の1つである「スターローズクォーツ」などインドラ作品のファンの方々ももしかしたら、ほかのブランドのジュエリーとは違うエッセンスを見出して水金に通われているのかもしれない。

話はそれたが、結局石の話はあまり伺わなかった。買い付けはネパールのみならず、世界中の色々な石の市場に赴くのだという。「“波動のいい”石を探します。値段の安い高いは関係なくて、いいなと思ったら連れて帰ります」。イタリアの宝石商から譲ってもらったという、赤くて透明な、グミの実のように美味しそうな石(ごめんなさい、名前は聞きそびれました)は、「柔らかすぎるから加工できず、売り物にならない。でも自分のコレクションにしたいと思って購入しました」。それから、ネパール特産の深い海のような色のサファイヤや水晶の中では最も透明度が高く希少なヒマラヤ水晶などいくつかの珍しい石を紹介していただいた。しかし、私ときたら突如その流れを遮るように「ところでインドラさんはなぜ、ジュエリーの仕事をはじめられたんですか」と不躾にも質問してしまい、同時にカバンからノートと鉛筆を取り出してさっと構えた。私の好奇心のアンテナはまず、石よりもインドラさんご本人に向けて鋭く反応してしまったのだった。もうこうなったら職業病で軽く戦闘態勢である。石はインドラさんにとってただのビジネスではないんですね!?


水金でもたびたび紹介されているから、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。インドラ・マン・スヌワール氏は、古くからネパールの古都パタンで代々受け継がれる金銀細工を手がけるものづくりの家系スヌワール家の血を引く末裔だ。初めて銀の指輪を制作したのは7歳の時。祖父の仕事を見よう見まねで、年に1度の祭事のために売られる魔除けの指輪づくりを手伝った。1つ2円か3円程度の土産物のようなものだが、祭りの日には大勢の人がやってきてその指輪を買い、ご利益に授かるのが習わしだ。インドラ少年は、自分が一生懸命つくったものが気持ち良いように売れていく様子が嬉しくてたまらなかったという。

その後、彼は学校へ行き、おそらくその間はジュエリーのことは考えもしなかったかもしれない。16歳の時に写真家になると決めてネパールを出た。写真を撮りながら世界各地を旅し、やがて日本にたどり着く。その頃出会ったこの国の友人たちは今でも付き合いがあるし、世界中にいる友人のうちでも日本の友人の数が一番多いそうだ。しかもご自身の会社は札幌にある(弟さんが切り盛りしておられる)。今回は聞きそびれたのだけれど、インドラさんにとって日本とはどういう国なのだろう。切っても切り離せないインドラさんと日本の関係について、いつかまた機会があればお尋ねしてみたいと思っている。

写真家を志す青年は、日本の写真賞に応募して、いくつかの賞を見事に受賞した。その時の写真を見せていただくと、ネパールをはじめとする山間地域や田園地域のなかで素朴に暮らす人々や子どもたちの自然な表情や佇まいがただただ美しい。私などが結論するにはまだ尚早で何も知らなさすぎるが、もしかしたらインドラさんのなかでは、写真を撮ることも、ジュエリーをつくるということも、さほど大きな違いはないのかもしれない、ということを思った。インドラさんが旅をして、“波動”を感じたものを切り取って、私たちの前に見せる、伝えるという活動。そのアウトプットが、写真という表現か、あるいはジュエリーという表現か、という違いでしかないのでは。そしてインドラさんの目と心が受信するその“波動”とは、地球や生命といった、悠久の時間とともに流れてかたちづくられていくようなもの・・・。こんな風に書いてしまうと、なんだかスピリチュアルな世界に少々寄りすぎてしまうだろうか。

とにかく事実は、写真を撮りながら、一方で現実的な生活の糧としてジュエリーの制作と販売をはじめられた、ということだ。やがて後者がメインの生業となっていくわけだが、それはインドラさんの血統を考えれば当然というか、宿命的な流れといえるだろう。


「ところで9月にネパールにホテルを建てたんです」とインドラさん。最近、ネパールの都市部では旧い建築をリノベーションした「ヘリテージホテル」が増えてきており、ヨーロッパなどから観光客が集まってきているそうだ。インドラさんのホテル「ZYU」は、地元の伝統的な装飾技術をもつ職人たちに声をかけ、地域のものづくりの粋が凝縮されたような空間になっているという。経済の落ち込みと、外資の安価な材料を求めるあまり、伝統の技術が失われてゆく状況はネパールも日本も同じだ。インドラさんは母国の状況に危機感をもたれており、「技術を残して伝える」ための1つの表現としてホテルというかたちにチャレンジされているのだ。

さらに「近所の山も買ったんです」とさらっと仰るので、思わず聞き返してしまった。「や、山ですか」。「そう。将来そこにエコビレッジをつくりたいんです。自然エネルギーを活用した自給自足の村をね。僕が撮った写真のような田園や子どもたちのこれからのことをみんなで考えていきたいんです」。ス、スケールが大き過ぎますね、インドラさん。「それから牛を買いましてね。イタリアから職人を呼んできて美味しいモッツァレラチーズを・・・」。モ、モウ、十分でございます!!


さて、話を石に戻そう。インドラさんは実は、有数のビーズコレクターでもある。「まるくて穴があいているものはすべてビーズ。日本のトンボ玉もそうだし、世界中のビーズを“かなり”集めています」。インドラさんが“かなり”と仰る時は“破天荒な量と質”という意味だろう。「例えばこれ」と足元に置いてあったプラスチックケースから、ビニールに入った縞模様の細長いビーズを取り出して、私の手のひらに載せてくださった。なんだかほんのりと温かいのは気のせいだろうか。「これはキング・オブ・ビーズと呼ばれるジービーズで、日本では天珠(てんじゅ)といいます。インダス文明に(インドやパキスタンあたりで)つくられたものがチベットへと渡り、そこでお守りや家宝、大仏の首飾りなどに使われていた高貴なもの。瑪瑙(めのう)を特殊な染料で染めて魔除けなどの文様を描いてあります。コレクターもたくさんいるからネットで調べてね」。はい。現代でも製造する技術はあってたくさんつくられているが、「古代天珠」と呼ばれる紀元前につくられたものは特に希少価値が高く、世界のセレブリティたちがこぞって求めるのだという。インドラさんもご自分の「お守り」を見せてくださった。濃いめのコーヒーにクリームを落として幾何学模様を描いたような・・・こんなチープな喩えしかできずまことに恐縮だが、これで1粒数百万という世界なのだからあれこれ言わずひれ伏すほかあるまい。しかしインダス文明を数百万で買えると思えば、高くはないのかもしれない(セレブにとっては)。

ほかにも、古代ローマでつくられていたとんぼ玉の一種である「人面玉」(平な円形のガラスビーズに人の顔が描かれている)や、古代フェニキアでつくられていた「人頭玉」、古代エジプトのヒエログリフが刻印されたビーズなど、もはや考古学レベルとしか言いようのないお宝を惜しげもなく見せてくださった。実際、考古学の研究者と一緒になって古代ビーズの研究も進んでいるのだとか。「もう少しで集めているビーズのコレクションがコンプリートするから、その暁には博物館に収蔵してもらい、本を出そうと思っています」。はあ。とんでもないスケールの話を、屈託のない笑顔で軽妙に語ってくださるインドラさんが、とうとうインディ・ジョーンズのように見えてくるのだった。

というわけで、インドラさんの個展をご紹介。石も、古代ビーズも、インドラさんも、“本物”に会えます。

インドラ・マン・スヌワール展
2016年11月3日(木)~20日(日)

「美しい物を追い求めて東奔西走するインドラさんが世界中から集めて来たのは、
実に希少で趣のあるプレシャスストーンやアンティーク。
ずらりと並んだインドラ・コレクションから、お好きな石を使ってリングやペンダントのお仕立てもいたします」

インドラ・マン・スヌワールさん在店予定
11月2日(木)~6日(日)、11日(金)~13日(日)、18日~20日(日)
14:00~19:00



いくら時間があっても足りない。夢中になって話を伺っていたら、いつの間にかおいとましなければいけない時間が迫っており、最後に何度も御礼を申し上げて失礼した。水金の皆さんに見送られながら店を背にし、足早に表参道の雑踏に紛れ込む。インダス文明やら古代ローマやら、まるでおとぎ話のような時空を超えた世界から、慌ただしく現実に引き戻され、私の意識も日日の仕事の方へと向かわなければならないことがひじょうに惜しまれる。興奮で握りしめていたのか、ほかほかと温かくなっている手の人差し指に「相棒」の存在を確認する。大丈夫。私の身体には、インドラさんが紹介してくださったあの悠久の時間がしっかりと寄り添っている。どんなことだってやり遂げられそうな気がする。するとタイミングよく、目の前の信号が青に変わった。さあ、行こう。いつもより目線を高めにして、私は横断歩道を渡った。(終)