2016年2月27日土曜日

雑貨展



2016年2月26日(金)- 6月5日(日)
21_21 DESIGN SIGHT


すごいなあ、深澤直人さん、とても難しいテーマに取り組まれたなあ、、というのが最初にタイトルを聞いた時の印象。

一つひとつを取りあげればそれは「商品」であり「作品」であるわけだけれど、それらがまとまって「雑貨」という集合名詞で呼ばれた時にその価値はどう評価されるのか。「雑貨」とくくられるものをたくさんつくってきた深澤さんの実体験からもそのことに疑問を感じてきたのではないか。

で、雑貨とは何かを定義しようとしてみたり、そもそも「雑」という言葉の意味を考えてみたりしたという。雑貨通の人や目利きの店主たちを呼んで一緒に考えてみた。でも定義なんかできないから「雑」という字がつくのだし、結局出た答えは「雑貨って人それぞれだね」ということだったのだと思う。

雑貨って編集のこと。やっぱりそうかと確認できた時に、きっと企画の敷居はぐっと下がって、みんなきっと肩肘張らずに楽しく取り組みはじめた。会場では、ピックアップされた個性的でいけてる雑貨屋さんの編集の背景にある考え方とか物語、それから一番大事な「センス」のエッセンスが表現されている。小さな展示スペースにコンパクトに詰めこんでも、その店らしさがちゃんとあるのはさすがだ。

今回はどうも、お勉強になるというタイプの展覧会というよりは、割とすごい物量の“ものもの”と向き合ってお話でもするような感じか。ちょっとこだわりのある人々が編集したものものがある程度の量まとまり、特定の見せ方の元で発せられる独特の空気感を感じ取っていくという体験。だから来場者の方も、「人によって雑貨の捉え方って変わるんだな」とか「私だったらこういう編集をしたいな」といったことをそれぞれに考えるのがきっと楽しいと思う。

せっかくならその場で買えたら最高なのだけれど。手で触れて、匂い嗅いだりして、お店の人と話して、でもって最終的に消費できる前提というところまでが雑貨!とは思うけれど、今回はあくまで「雑貨展」なので。「雑貨店」ではないので。物欲ゲージが最大に高まってしまったら、エントランスの特設ショップで発散するか、実際に各お店に足を運んでみて下さいね、というわけである。



展覧会ディレクター:深澤直人
企画:
    井出幸亮/テキスト
    熊谷彰博/コンセプトリサーチ
    中安秀夫/コンテンツリサーチ
    橋詰 宗/展示グラフィック
会場構成デザイン:荒井心平(NAOTO FUKASAWA DESIGN)
会場構成協力:五十嵐瑠衣
ショップ監修:山田 遊(method)
展覧会グラフィック:葛西 薫
企画構成:前村達也(21_21 DESIGN SIGHT)

参加作家・出展者一覧

[参加作家]
青田真也、池田秀紀/伊藤菜衣子(暮らしかた冒険家)、WE MAKE CARPETS、川原真由美、国松 遥(Jamo Associates)、小島準矢(Superposition Inc.)、島本 塁/玄 宇民(CGM)、清水久和(S&O DESIGN)、シンプル組合&RONDADE、菅 俊一、D&DEPARTMENT、寺山紀彦(studio note)、野本哲平、萩原俊矢、藤城成貴、町田 忍、松野屋、三宅瑠人、フィリップ・ワイズベッカー

[出展者]
井出恭子(YAECA)、岡尾美代子、小林和人(Roundabout, OUTBOUND)、小林 恭・マナ(設計事務所ima)、たかはしよしこ(S/S/A/W)、平林奈緒美、ルーカス B.B.(PAPERSKY)、PUEBCO INC.、保里正人・享子(CINQ, SAML.WALTZ)、松場登美(群言堂)、南 貴之(alpha.co.ltd)、森岡督行(森岡書店)


2016年2月26日金曜日

宮川香山展


没後100年 宮川香山
2016年2月24日(水)~4月17日(日)
サントリー美術館


宮川香山。 こちらも明治を駆け抜けた作家であるが、もう圧倒的。凄すぎる。大好きだ。

鉢の口にリアルな蟹が足をかけている作品は見たことがあったのだが、田邊哲人コレクションは想像を遙かに超えていた。

高浮彫と呼ばれる、自ら開発したハイレリーフの技法により、陶器の表面を花鳥風月、神様、獄卒、建築まであらゆるモチーフで盛って、盛って、盛りまくる。極盛り、全部盛り、大盛り上がり。いわゆる「カワイイ」とは全然違う方向性、むしろ「コワイ」。でも、カワイイの本質ってコワイかも。ええもう、冷静ではいられない。

これでもか、これでもか、と狂気すら感じるほどに盛られ、あるいはグロテスクなまでにえぐられた花瓶や器。驚くようなアイデアの上に技術が精細で非の打ち所がないものだから、見る方はもうくたくたで作家の有り余るエネルギーを受け止めきれない。もはや美のバイオレンスである。

壺だの、皿だの、あるべき原型はとっくにとどめておらず、当然のことながら機能とか無視。わずかに残された平らな面に背景が描かれ、そこから突然立ち上がってくる立体の植物や動物たち。先日、理論物理学の超弦理論を扱った映像を見てきたところで、まさに2次元から9次元まで自在に行き来するような、魔術のような世界観がそのまま、香山の作品に再現されているように思えた。

今にもはばたこうとする鶉の半身は器のなかに埋まっている。鼠の尻尾も半分は平面に描かれ、半分から先の身体は空間に飛び出している。どこまでを2次元にして、どこから3次元として立ち上げていくのか。香山の凄みは次元を超越した構成力にあると言えるかもしれない。

そもそもベースが器である必要あるのかと思うが、きっと必要あるのである。独自のやきものとして確立しなければならない環境、世界の工芸に打って出たいという野望もあるだろうが、それ以前にこの人の才能が凄すぎて、器という枠組み・制約をかろうじてもっておかないと、たぎる創造のマグマが押さえきれなかったのではないだろうか。

で、もっと驚くのはフロアを降りた会場後半。ガラリ。ほんとうにそんな音が聞こえそうなほど、前半とはうってかわった静謐な世界にまた度肝を抜かれる。明治十年代半ばから取り組み始めたという透明感ある磁器の高貴で優雅なこと。縄文土器と弥生土器くらいの違いである。本当に一人の人間かしら、こんな魔法みたいなことがあるのかしらと思うほど、極端にかけ離れた次元を自在に行き来できる天才、宮川香山。評価? そんなの必要? 誰にも文句は言わせない。まさに次元が違う。そんな迫力に満ちている。




2016年2月23日火曜日

今日の侘び錆び








某区某所にあるコインシャワー。

コインランドリーの奥にたしか3室か4室ほど設置されているのだが、この前を通る時にはいつも「使用中」と記された赤いランプが点灯しているため中を見たことがない。

実は管理者がずっと使用中にしてカギをかけているだけではないかという噂もあるほど、「あかずのシャワー」としてその場所は知られていた。

ある時、近所の小料理屋で飲んでいると、初老の男が「あのコインシャワーが空いたのを一度だけ見たことがある」とカウンターの女将に話しているのが聞こえてきた。

男はやんごとなき事由によりどうしてもシャワーを使いたかったため、何時間もランドリーのパイプ椅子に腰掛けて空くのを待っていたという。銭湯はどこも閉まっているような時間帯であった。

水の音はどの部屋からも聞こえていたそうだ。蛇口をひねる音、シャワーの音、しばらくして止み、またシャワーの音。 そして蛇口をひねる音――。男はその規則正しく繰り返される音の連鎖を聞いているうちにだんだん眠くなってきてしまった。

まったく空く様子もないので男はとうとう諦めて席を立った。既に白みかけている空の下へと歩みだそうとしたその時、背後でガチャリ、と音がした。

遂に、コインシャワーの扉が開いたのだった。

男が振り返ると、そこには小さな猿が立っていた。

ずぶ濡れの猿の足元には水たまりができ、その面積がじわじわと広がっていく。

猿はばつが悪そうに、呆気にとられた男の顔を見ていたが、すぐに「出口を間違えた」とでもいうようにコインシャワーのなかに入っていってしまった。扉が閉まると、使用中のランプが再び点灯した。

以後、ランプの明かりが消えたことはないという。


(終)







※まあ、すべて妄想です。

2016年2月22日月曜日

最近の展覧会


両展とも心待ちにしていた。

現代アーティストの爆買いぶりが彼の作品よりも称賛される心細い時代、芸術の志ということについて真剣に考えたくなる、近代美術館二館での展覧会。
大きくうねる時代のなかで、日本の芸術家たちは何をしてきたのか。丁寧に掘り下げていく、学芸や研究者の方の力量を感じる意欲展。


原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし
埼玉県立近代美術館
2016年2月11日(木・祝)~3月27日(日)


あの頃、政治や文学で国を変えたいと思うひとがいたように、芸術で世の中を変えたいと本気で信じてヨーロッパに渡ったひとがいたということ。

原田が留学先のミュンヘンで描いた老人や神父は、20代前半の学生の絵とは思えない気迫で人間の生き様を描ききっている。強い何かがたちのぼっている。このひとは信じていたんだろう、本気で、俺がここで習得した西洋画の技術でこれからの日本を変えてゆきたいと。

高い志。帰国後、原田を待っていた洋画排斥の逆風のなかで一人戦う男。

一方で莫逆の友、森鴎外による『うたかたの記』のモデルとして、狂気と繊細のあいだで心揺れる若い画学生像とのイメージの隔たり。ミュンヘンでの人間・原田直次郎のことはまだわからないことが多く、だからこそミステリアスで興味が尽きない。


(2月24日追記)
あれから原田直次郎が気になって読み始めている。『森鴎外と原田直次郎』(東京藝術大学出版会)における新関公子先生の考察や仮説がイマジネーション豊かでとても興味深い。鴎外が日記に記した原田のこと、ドイツ三部作『うたかたの記』『舞姫』『文づかい』における原田の境遇を思わせる描写など、親友・鴎外を通じて見る原田像が生き生きとしている。

まあ、どうしても芸術家たる原田君は夢をみてゐた人だね。夢を見て死んだ人だね。私は何でも二つに分けると云うやうで可笑しいが、芸術家を、夢見る人と見ない人の二つに分けることも出来るだらうと思う。(森鴎外「再び原田の記念会について」『国民新聞』明治四十二年十一月二十九日インタビュー記事)

私は森鴎外の文学者としての大きさ、人間としての精神の豊かさを知るにつけ、原田直次郎という画家は、かくもすばらしい文豪から溢れるような愛情を注がれるに値した男だったのだろうか、という疑問をずっと抱いていた。美術史の世界でもながく研究の谷間に置かれてきた画家である。何よりも残された作品の数の少ないことが、作家研究を難しくしているのであろう。しかし、この稿を書き終えてみると、原田直次郎という画家は洋画の逆境の時代にあって、龍池会に乗り込んでたった一人の反乱を試みるなど、高潔な志士の気概を持った好男子であったと実感できた。権威、権力に恬淡としていたところが、鴎外には真似のできない点だった。(新関公子『森鴎外と原田直次郎』より)

本展の会期終盤にあたる3月23日からは東京国立博物館・平成館で「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展がはじまる。志半ばで夭折した原田と入れ替わるようにして、その後の日本洋画壇ひいては美術行政そのものを牽引した“巨匠”。そこにはもちろん鴎外の姿も。時系列で日本近代美術の転換期を眺められるこの好機を逃す手はない。




恩地孝四郎展
東京国立近代美術館
2016年1月13日(水)~2016年2月28日(日)

昨秋東京ステーションギャラリーで開催された「月映」展に続き、恩地の版画に再びまみえる嬉しさ。
日本の抽象画を切り拓いた恩地孝四郎の画業にフォーカスした回顧展はとにかく充実。図録も分厚い。生業としたブックデザインの仕事もアイデアに溢れて素晴らしく、むしろ版画よりも明るく生き生きして見えるのは気のせいだろうか。

一方で私は恩地の版画のそこはかとない暗さが好きだ。実験的で自由にみえるかたちのなかに、なぜか惹きつけられる鈍色、灰色がかった暗めの色あいが貫かれる。それは恩地が生きた時代の色、恩地自身の人生に通底した色のようにも見え、そこにリアリティを感じる。


(2月25日追記)
1896年(明治29年)東京美術学校にようやく西洋画科が設置され、教官のポジションに“勝ち組”代表の黒田清輝が抜擢される。本来その座に就くべきだった原田直次郎は病が重く、もはや寝たきりの状態。鴎外は複雑な心境ながらも嘱託として西洋美術史を教える立場についた。

14年後(1910年)、この東京美術学校予備科(西洋画科志望)に恩地孝四郎が入学した。ただし本科には進めず、翌年彫塑科志望に入り直すのだが。それ以前に恩地は憧れの竹久夢二に面会してすっかり影響を受けまくっており、学校では優良な学生とはならなかったようだ。結局、退学処分となってしまう。しかしここで田中恭吉、藤森静雄と出会って同人誌『月映』を出すことになり、それが自身の版画業の始まり、さらには日本版画の近代化の先鞭をつけることとなるのだから学校も意味がなかったわけではない。

恩地もまた版画の地位向上のために一人戦った人。しかしその価値はなかなか認められなかった。かつて浮世絵がそうだったように、日本人がきちんと評価できずにいるあいだに海外に流出していってしまった。恩地の作品、特に戦後の版画がそうだ。

戦前から戦後まで一貫して抽象絵画の存在意義を主張し、日本版画の近代化のために孤軍奮闘したにもかかわらず、国内で充分な理解を得られなかった恩地に、一近代人としての芸術家の悲哀や苦悩を見ることができよう。ただ、恩地自身は実際には、日本の画壇や観衆に自分の版画が理解されるなど期待していなかった。むしろ諦観していたというほうが正しいだろう。だからこそ、1枚か2枚しか摺りのない戦後作品を理解者であるアメリカ人に惜しげもなく渡していたのである。
つまり現在、恩地の戦後版画の多くが海外の美術館に所蔵され、日本で見ることが叶わないのは、作家自身の選択でもあったのだ。(本展図録「恩地孝四郎:戦後抽象版画の展開」(桑原規子)より)

さて、今日の状況はどうだろうか。

私たちは何を評価し、何を見過ごしているのだろうか。

そう考えると、爆買いという評価の仕方があるということも、できるかもしれない。。




魔女の秘密展

秘密というよりは真実。

本当にあったこと、としての魔女裁判。

ヨーロッパ30カ所以上の博物館などから集めた“魔女狩り”の資料。日本初公開のものも多数。

こうして図録を開いて改めて見ることすら憚られるような気持ちだ。はっきり言って怖いです。ショックを受けちゃう人もいるかも。。

詳しくは、本展監修者や解説者の言葉を借りたい。衝撃的だが、リアルな展覧会だ。


魔女の秘密展
2016年2月19日(金)~3月13日(日)
ラフォーレミュージアム原宿


(以下、プレビュー会見より抜粋、構成しました)


西村佑子氏(本展監修者、ドイツ文学者)

ヨーロッパのある時期あった恐ろしい出来事、魔女裁判。
よく「中世の魔女裁判」とか「暗黒の時代の」とか言われるが、決してそうではありません。15世紀半ばから18世紀の半ばにかけて、中世から近世に起きた出来事なんです、決して中世だけとは思わないで下さいね。

展示は「信じる」という章から始まります。
当時、人々が思うところは宗教にありました。キリスト教を信じることは、自然と悪魔や魔的なものについても信じていくことにつながりました。
また近世というのは少しずつ科学や技術が発達していった時代。グーテンベルグによって印刷術が発明され、メディア革命ともいうべき大きな変化がもたらされた。ドイツの場合ですと宗教戦争があり、それと同時に魔女論がたくさん出版された。ちょっとしたうわさ話が大きく広がっていく素地ができあがっていったんです。

(写真)『魔女に与える鉄槌』は魔女の犯罪を体系的に記述した最初の印刷本。魔女の定義、黒魔術の方法、自白させる方法などが記されている(ハインリヒ・クラーマー/1519年版、1490年版)

それからこの時代は小氷期と呼ばれる天候不順による大飢饉や貧困に見舞われました。疫病も大流行した。これまで神様のいうことを信じてきたけれど、もうそれだけではどうにも生きていけないという状態。そうしたなかで魔女は生まれたのです。魔女というスケープゴートを生み出すことによって人々は安心したんです。自分のせいではない、魔女がそういうことをしたんだと。つまり魔女とはつくりだされたもの、ということなんです。

(写真)ペストの流行や貧困を描いた作品など

生み出された魔女を裁くわけですが、えん罪であるから当然証拠はありません。だから「自分は魔女である」と自白させる。自白させるために拷問にかけるわけです。皆さんギョッとされるかもしれませんが、会場には拷問の道具も展示されています。

数多くの魔女裁判を経て、1775年に最後の魔女裁判が行われます。もう18世紀の半ばです。その後は美術や芸術の世界、イメージのなかで魔女は残っていきます。

一方、日本には魔女の歴史はありませんでした。現代の日本にあふれる魔女のイメージというのは決してパッとできたものではなく、ヨーロッパのこうした歴史があって生まれてきたいうことをわかっていただけたら。それが私の願いでもあります。



山田五郎氏(編集者・評論家)

35年ぶりくらいにドイツに行って取材しましたが、驚くことだらけでした。
魔女裁判というと必ず「中世の」ってつくんですよ、「暗黒時代の」とか。中世の悪い領主や王様、エロ坊主がきれいな若い女の子をものにしようとして拒まれて、腹いせに魔女だといって拷問して殺したイメージがあるかと思いますが決してそうではなかった、ということです。

魔女裁判が最も盛んに行われたのは17世紀ですよ、ルネサンスも起きてます、ガリレオもニュートンも出てきた、そんな時代に、教会の異端尋問所じゃなくて町の裁判所で、法律にのっとって裁かれました。なまじ法律にのっとって裁いたものだから、証拠が必要。だけれども魔女の証拠なんてあるはずがないから自白が必要になる。自白を得るためにどうするかというと拷問にかける。町によっては拷問を合法化していくことになっちゃった。

エロ坊主やエロ領主がやっているのではないから、誰かが訴えるわけです。それが市民だったりする。妬みや恨みが理由で市民同士が訴えあいをする。そういうことが始まると自分がいつ訴えられるか分からない状況になってきます。いつ自分が魔女だと言われるか、言われたら負けですから。言われたら負けというこの恐ろしさ。自分がやられる前に誰かを訴えちゃおう。誰かが訴えられたらその人を助けてやろうというのではなくて犠牲にしちゃおう、と。

それがあったからこれだけたくさんの、びっくりするほどたくさんの、魔女裁判が行われてるんですよ。エロ坊主やエロ領主だけがやっていたらこんな数にはならないですよ。これは市民同士がお互いに訴え合って、まなじっか法律によって裁かれたもんだから、こんなにたくさんの魔女裁判が起きたということなんです。
地域と処刑者数:ドイツ2万5000人、フランス5,000人、ポーランド4,000人、スイス4,000人、ベルギー/ルクセンブルグ2,500人、イタリア2,500人、イギリス1,500人、デンマーク1,000人、ハンガリー800人、チェコ800人、オーストリア500人。他にスロヴァキア、スロヴェニア、ノルウェー、リヒンテンシュタイン、スペイン、スウェーデン等各地域でも魔女狩りが行われた。(本展展示パネルより)

死刑になった人のなかには男の人もいるし子どももいた。もう誰でもいい。ここに今回の展覧会の一番のポイントがあると思うんですよ。法律も通用しないようななんでもありの“中世の暗黒時代”だから起きたことじゃないんですよ、魔女裁判というのは。

なまじっか民主的な状況がそろってきて、法律があって、印刷術ができてね、魔女の条件みたいなことを情報として知る。そういう結果起きた悲劇だということ。現代の日本と共通することがたくさんある。魔女裁判の構図はいじめの構図とまったく同じです、自分が被害者になる前に誰かを訴える。誰かをスケープゴートにすることで、色んな不満のガス抜きをする。当時は印刷術の誕生がメディア革命を起こしましたが、今だとインターネットがそれにあたります。噂が流布する、それに対してバッシングしていく。ネット上のバッシングもそれに似ている。

魔女裁判、魔女というものが決して“昔のヨーロッパの話”ではなく、今の日本にも十分共通するところがある。人の心の恐ろしさとか、群集心理の残酷さといったものをこの展覧会から感じ取ってほしいと思います。

(写真)後世に描かれた多様な魔女のイメージ

2016年2月17日水曜日

今日の侘び錆び

高尾山トリックアート美術館

目!





建築家F・Gの言葉

※展覧会は終わりましたが、内容は記者発表会の要約メモ。割愛した部分もあります。ご参考まで。



建築家になったきっかけ?
説明するのに4時間かかるよ。

一番最初は、そう、ぼんやりと覚えているのは、父親と母親との生活が教えてくれた、何かをつくる、ということ。でも子供だったからよく分からなかった。とにかく貧しい時代だった。


それから大人になってロサンゼルスでトラックの運転手になった。
夜はロサンゼルスのカレッジ、大学(University)じゃない方に、通って。

科学とか、数学とか、たくさんのことに興味があって取り組んだけれど、出来はあんまりよくなかった。落第して、悔しいからもう一年やって、今度は片っぱしからAを取った。
それが、僕の「First Blick」(一段目のレンガ)。

学校の友達がラジオのDJをやっていて、それがすごく面白かったから僕もラジオをやりたいと思ったことがある。でも、みんなに止められた。声が、きっとよくなかったんだと思う。あとクラスで製図の授業をとって、それがとても「よかった」って先生が励ましてくれた。
それがきっと「2nd Blick」(二段目のレンガ)。

陶芸のクラスもとったけれど、それは先生もうろたえるほどの酷さで、とても見せられたものではない。でも先生は僕のことを気に入ってくれて「助手になれ」と誘ってくれたこともあった。

その先生は磁器作家としても割とすごい人で、とくに釉薬、セルリアンブルーのとてもきれいな磁器を作る人だった。自宅を、ラファエル・ソリアーノというミニマリストの建築家、日本だと安藤忠雄みたいな人、に設計してもらっていた。その器の先生が「君は建築のクラスをとりなさい」と言ったんだ。

それで僕は南カリフォルニア大学で毎週月曜日の夜に建築の授業をとった。
すぐに飛び級して2年目のクラスに入った。

でもその大学の先生が僕に「君は建築家になるべきじゃない」と言ったんだ。後にその先生に会うことがあって、僕が何か言おうとしたらすごい勢いでそれを遮ってこう言った。「いやもう何も言うな。言わないでくれ。分かってる。分かってるんだ」って。


戦争が終わると、調査のためGIと一緒に日本に来た。
伊勢神宮、正倉院、桂離宮を見て、本当に感動した。

50年代のロサンゼルスは木製のトラックハウスが主流で、木で柱を作ってプラスター板でカバーした簡単なものなんだけれど。それらがずらっと何十メートルも並んでいる様子というのは日本の寺社建築みたいでもあった。とにかく、日本の木造建築は僕だけじゃなく、アメリカの建築家たちにとても大きな影響を与えていたんだ。

日本の国宝を紹介する展覧会をロサンゼルス州の美術館でやった時、会場構成を担当したことがある。広重とか北斎、うつわ、文学など、題名まで覚えていないけれどにかく日本の文化にはまった。
雅楽の先生に演奏を習っていたこともある。僕は“チャリ、チャ、リーン”とやるパートを担当していて、先生に呼吸や間の取り方を教えてもらってなんとかその“チャリ、チャ、リーン”のパートに関してはお墨付きをもらえるまでになった。


これからどんなことをしていきたいか?
それは分からない。

僕は「建物(Building)」を作ることがたのしいし、好きなんだ。中毒なんだよ。
息子も建築家になることを決めたし、僕には今、一か月の孫娘がいる。義理の娘が韓国系の人なので、日本人やアジアの人を見ると家族みたいな親近感を覚える。

今、慈善活動に取り組んでいる。

カリフォルニアでは小学校を卒業できる子が半数に満たないという事実がある。刑務所で過ごす子の方が多いくらいだと言われる。
で、ミシェル・オバマ大統領夫人と共同でプログラムをはじめた。
「ターンアラウンドスクール」という、小学校にアーティストを呼んでアートの授業をしてもらう活動だ。
授業を受けた子供はみな夢中になって、手を使って何かをつくって。その成果が少しずつ出はじめている。それが今、たのしい。

小さい頃、床に座ってブロック遊びをしていた。
祖母が傍にいて一緒に遊んでくれた。
祖母にどんな思いがあってブロック遊びを勧めてくれたのかわからないけれど、アイデアがどんどん生まれていって、たくさんのアイデアのあいだを探検していくような感覚があったことを覚えている。


学校で建築の学生に教える時には、まず自分のサインを書かせるんだ。
一人ひとり書きかたも表現も全然違うってことをわかってもらう。
建物やエンジニアリングもそうだと思う。
まず一人ひとり違う個性とアイデアがあって、それを探究していくことから創造は生まれる。

最初の直感を信じることが大切なんだ。




2016年2月16日火曜日

車力道



その道は「車力道」という。

鋸山の頂上付近の採石場で切り出した房州石を「ねこ車」と呼ばれる木製の荷車に乗せて急傾斜の道を滑らせ、ブレーキをかけながら下りた。

1本80キロの房州石3本。1回につき240キロもの石を運搬する者は「車力」と呼ばれ、主に女たちの仕事であった。

江戸や横浜へ向かう渡回船が待つ港の集積所で荷を降ろし、空になったねこ車を背負って再び頂上の石切り場まで登る。これを1日3往復。わずか1回、頂上に行くのも大変なことだ。車力の仕事はケーブルやトロッコが敷設され、トラックが使われるようになってからも一部で昭和35年頃まで続けられた。


大小の石切り場が点在する鋸山。江戸時代後期から採石が始まり、明治から大正の最盛期には30軒の石屋によって年間56万本も産出していた。周辺人口の約8割が石材関連の仕事に従事するなど金谷は石の町として栄えた。


横浜開港に伴う護岸や土木工事用の石材として使われ、現在も横浜港高島桟橋、港の見える丘公園、靖国神社、早稲田大学大隈講堂の石塀などに残っているという。戦後は機械化され、パン焼き釜などにも使われたが自然保護規制強化により昭和57年に石切りの歴史は幕を閉じた。


山頂から下へと山を横にスライスするように石を切り出していく。
四角い横穴があるのは、良質の石を求めるため横方向に切り進む「縦切り」の跡だ。

石の切り出しは人の手作業だ。まずツルハシの一種「刃づる」で溝を掘り、5~6本の「矢」を石の底面に差し込んで岩盤からはがすように起こす。「たたき」で石の角を削って形を整え、商標を入れる。石屋には「I」(屋号:芳屋)「II」(俵屋)「ミ」(ミカド)「ヤ」(弥治郎)などそれぞれの印があった。

(以上、金谷観光案内所による解説パネルより抜粋して構成)



男たちは雨の日も嵐の日も山にしがみつき、女たちは重たい石を引いて急な坂を滑りながら駆け下りた。

いったい誰が刻んだのか、仏の像。

つい35年ほど前までツルハシを岩盤に打ち込む音やチェーンソーの轟音が響いていたとは思えない静けさ。ブロックを積み重ねたような幾何学的な口を開けた山壁も木々や苔の緑に覆われ、かつての産業の興隆と壮絶さについて沈黙するように。

一方私は、身体を余らせて使い切らぬ時代にぬくぬくと座ったまま弛みきって衰えゆく己の骨や肉を思った。







※2月18日追記

栃木県宇都宮市の大谷石産出跡地ではこんな取り組みも。

 栃木県宇都宮市「OHYA UNDERGROUND」

1.未稼働だった地場産業の「採掘場跡地」を活用

2.「地下空間の魅力」を生かしたツアーを開発

3.「ここでしかできない体験」で人気を集める

栃木県宇都宮市の大谷地域は、帝国ホテルにも使用された建材、大谷石の産出地として知られています。昭和40年代に最盛期を迎えましたが、近年は需要が低下し、年間出荷量は約89万トンから2万トンにまで減少。多くの跡地が使われないまま残されていました。
しかし、今、採掘場跡地が持つ「巨大地下空間としての魅力」を発揮させる取り組みが始まっています。
2013年3月に設立されたLLP(有限責任事業組合)チイキカチ計画は、普段は立ち入り禁止の採掘場跡地で、地底探検のクルージングや真の暗闇体験などのアクティビティを提供。『OHYA UNDERGROUND』のブランド名で「ここでしかできない体験」を提供し、予約待ちが出るほどの人気となっています。
チイキカチ計画の代表・塩田大成は、地権者との交渉や安全性の確保など、数々の課題を乗り越えてサービスを実現。次なる企画として、地下を舞台にしたアウトドアレストランを視野に入れるなど、『OHYA UNDERGROUND』を進化させています。

以上、「地域×デザイン -まちを編みなおす20のプロジェクト-」の解説パネルより抜粋しました。

東京ミッドタウン・デザインハブ 第56回企画展
地域×デザイン -まちを編みなおす20のプロジェクト-
会 期:2016年2月18日(木)~3月6日(日)11:00~19:00
会期中無休・入場無料

会 場:東京ミッドタウン・デザインハブ
東京都港区赤坂9-7-1 ミッドタウン・タワー5F



2016年2月15日月曜日

青龍

一月の朝に、白と青色の龍が西空の彼方へと疾駆していった。
傍らにはそれぞれ子のような龍を添わせていたが、軌跡はあっという間に風に流されて消えた。



その一週間後に京都へ行き、将軍塚青龍殿に詣でた。

将軍塚青龍殿。大舞台から京都の景色を一望する。

昨年4月から公開されているガラスの茶室「光庵」(デザイン:吉岡徳仁氏)は、山間の青く霞む風景に半ば溶け込みながらも凛然とした存在感。環境からの呼びかけに反応したような建築。主張と受容のあいだにある表現の機微は研ぎ澄まされた冬の空気のように、思わず身が引き締まる。


青龍殿のなかに入り、青黒の御不動様を仰ぐ。

両脇に侍る二名の童子が宇宙の中心を見上げていた。

子どもは純粋無垢な心でものごとの真偽を見抜く。
煩悩を焼き尽くす忿怒の相の下に隠れる優しい導きの行方を知っている。

今年は節義を尽くせとのこと。

子どもの姿勢を見習いたい。
子どもは先を見すぎないから焦らない。ただ目の前のことに夢中になるだけだ。

集中が途切れて目の前のことから視線が外れると、どこからともなく湧き出でてくる厄介な妄念に取り巻かれてしまう。その暇や隙を与えないように、今この瞬間にやるべきことに心血を注ぎたいと思う。そうしていれば煩しき悩みなど御不動様が焼き尽くしてくださるだろう。もう先を見ようとはするまい。壮大な夢や希望といったものは若い頃の持ち物である。この歳にもなると、今この瞬間が持てるすべてだ。それ以上など望むべくもない。