2017年3月24日金曜日

ミラノデザインウィーク行くなら「toolbox EXHIBITION_THE STORE」

アクシスにも何度か登場している京都のデザインユニット「toolbox」が、ついに、満を持して、ミラノデザインウィーク(ミラノサローネ)に乗り込む。「人がたくさんいて埋もれちゃうし、大変だし、ミラノじゃなくて常夏のシンガポールにしたら〜」などというゆる〜い誘惑には決して乗らない人たち。仕方がない。だってやっぱり、メンバー(特に竹内氏)の心の故郷はイタリアなんだもの。数年前から視察して、準備して、いよいよ。キレキレの手業と半分狂気の思考で、ミラノの皆さんをびっくりさせちゃってほしい。あー、見たい!ブレラ地区、行かれる方はぜひ。



個展概要:
「toolbox EXHIBITION_THE STORE」
BRERA DESIGN DISTRICT
FUORISALONE DESIGN WEEK
会期:2017年4月4日−9日
時間:10:00−19:30
場所:THE STORE
Via Solferino, 7, 20121 Milano
詳細:BRERA DESIGN DISTRICT
http://fuorisalone2017.breradesigndistrict.it/evento/329/toolbox-exhibition_the-store


toolboxからのメッセージ:

今回は3つの新作を発表いたします。
まず、tool no.20の展開として、会場のショップ什器をデザインしました。
椅子、テーブル、棚、のファミリーとしてインテリアを構成します。
仮設的に使用されるショップ什器をバラした際に
それぞれのパーツが、素材として別のプロダクトに転用可能となるように、極力加工を減らし、たった一つの接合方法で、ビスによるノックダウン方式をとっています。



tool no.19は「起き上がり小法師」のように自重でバランスをとって自立する時計です。
置き時計から床に設置するための脚を消し去りました。



tool no.21は同じ形状のパーツの反復使用による工業生産的な思考と、マニアックな接合ディティールの工芸的魅力が同居したような作品となっています。


展示会場では、中川による新作にまつわる新しいムービーの公開と、
大西による、toolbox BOOKを来場者に配布する予定です。


toolbox
クリエイティブな木製品を生み出すtoolboxは、プロダクトデザイナー赤西信哉、竹内秀典を中心に、写真家/グラフィックデザイナーの大西正一、写真・映像作品を手掛ける中川周の4名で活動するユニット。
ウェブサイト:toolbox-kyoto.com
インスタグラム:https://www.instagram.com/toolbox_kyoto/


なにこの脚、どうなってる?!

現地ではみんなで自炊。カルボナーラ。ミラノ満喫しとる!

2017年3月23日木曜日

エタブルオブメニーオーダーズ 2017AW「DECOLLECTION」

「エタブルオブメニーオーダーズ(Eatable of Many Orders)」の2017秋冬の展示会はチャレンジ精神にあふれていて、刺激的だった。



ブランド設立10周年、20回目のコレクションで彼らがやったことというのは、整理と脱構築。これまで取り組んできたことを振り返り、残していくべきものは残して発展させるし、「これが当たり前」と思い込んでいたようなことには一度ちゃんと向き合って「本当にそれでいいのか」と問いかけている。

一見、相反する作業、すなわち新陳代謝を1つのシーズンで一気にやってしまおうということに、アニバーサリーイヤーに対する特別な意気込みを感じるし、「10年経って安寧ではなく、どんどんもっと前に(荒野に)進んでいかなければならない」という開拓者としての何度目かの覚悟を見せつけられたようにも思う。だから刺激的。それでいて、そんな大仕事をさらりふわりとやってのけてしまうのだから、本当にとんでもないデザイナーだ。

今シーズンから舞台は恵比寿から代々木上原へ。しかも美容院「空間」。



この10年、エタブルの仕事はいくつかの大きな流れを作り出してきた、ように思う。私が彼らの服を見はじめたのは、2013−14秋冬の「Bakery」シリーズ以降だ。この時初心に立ち戻ろうとしていたブランドは改めて「eatable(食べる、食べられる)」を基本テーマに、その後数年にわたって素材とそれにまつわる産業、文化などを取り扱ってきた。

ファッションに疎い私がなぜ、このブランドを見続けるようになったのか。たぶん、服を作る人、というより、ピュアな研究者みたいな姿勢に興味を惹かれるからだと思う。まず、人間の生活や生きる知恵に対する好奇心が先にあって、1シーズンかけて探求したアウトプットの一部がたまたま服というかたちを取っているにすぎないからだと思う。

実際、展示会に赴く楽しみというのがサンプルの服だけでなく、その傍に大切に置かれているモノたちなのだ。例えば、デザイナーのインスピレーション源となったイメージを集めた手づくりのスクラップブックや、派生的に生まれたインスタレーションやアートピース。「今のシーズンは、何を考えたのですか?」。デザイナーにそう尋ねるのが楽しみで、私は会場に足を運んでいるところがある。

そして最新の流れが今回の2017秋冬「DECOLLECTION」である。これまでの物語や素材の「研究」を経て、デザイナーはとうとう「哲学」の領域に足を踏み入れてしまった様子。服とは何か、それを支える仕組みやコレクションとは何か、適正な時間の流れ方とは何か、そしてデザイナーがそこにどう介入できるのか――。今回の会場となった代々木上原の風変わりな美容院「空間」には、そんな作り手のデコンストラクションな「問い」にあふれている。




アートピースはさながら、デュシャンの通称「大ガラス」を思わせる大作。「服を脱構築的に眺めるための装置」だという。さもありなん。一枚の大きなガラス板に縦に入った亀裂。そこに写り込んでいるのは、シーズンの象徴的なジャケットだ。その像は亀裂によって裁断されているし、よく見ると、ジャケットの一部が裏返しに縫製されている。でも、そもそも表と裏の違いってなんだっけ。デザイナーの無言の問いに乗せられて、思わず私も頭をひねる。



服もだいぶ変わった。これまでの建築的なパターンや、気持ちのいい素材、あたたかみのあるエタブルらしい雰囲気は継承されつつも、なんだか別の次元のものになっている。よりモードに、より概念的、作品的になったというか、研ぎ澄まされてかっこいい感じ。アパレルラインのロゴも変わった。本気で生まれ変わろうとしているんだなあ。この10年を総括し、11年目へと向かうエタブル渾身の一撃、私はとても興味深く受け止めた。





※ちなみに熱海の直営店「EOMO store」では、3月29日(水)―4月1日(土)14:00ー19:00に受注会が行われるとのこと。ぜひ。



2017年3月21日火曜日

春を待つ

桜は咲いたようだが、春を待っている。

そして待ちながら考える。

目の前にどんな道が現れても、冷静に、間断なく、その道を歩き続けよう。高層HDBの50階からシンガポールのまばゆい夜景を眺めながら、デザイナーのウェンディ・チュアは言った。「人の才能なんて大して差はない。そのアイデアが、光のあたる場所に行けるかどうかはすべてタイミングなんだと思う」。



激流のなか、ものすごいスピードで見え隠れする黄金の魚。タイミングをつかまえることは容易ではない。つかまえられないとすれば何かの準備が足りなかったのだ。でも、時も、人生も、同じように流れてゆく。どこかできっと機会はまた訪れる。そう信じて、日々を変わらず、自らの技術を習熟させ、静かに時を待つのだ。惑星形成論の井田茂先生はこう言った。「(新しい星をつかまえるためには)ひたすら待つしかない。たとえ自分が生きている間に出会えないとしても」。最先端のサイエンスですら、その奥義は「待機」であるという。況や、凡人の処世道をや。

30周年を迎えたエレファントカシマシの宮本浩次氏は「チャンスなんて確信なんだ、感じるものさ」とかつて歌った。己の可能性を諦めることなく誠実に対峙し、周囲に対しても常に開かれた姿勢で臨んでおれば、長い待機時間の先に、然るべき時は訪れる。こちらの準備が万端でありさえすれば、あらかじめ丁寧に導かれるようにして出会うことができるはずだ。


ある人が20年勤めた会社を辞めるという。長く一緒に仕事をしてきて、安心の、とてもいいチームだったので残念に思ったが、自身の目指す方向とは全く違う辞令が出たため即座に退職を願い出たそうだ。潔さを貫いたその人は、「実は数年前からぼんやりとではあるが自らの転機を探していたので、辞令は1つのきっかけにすぎない」と話してくれた。心の準備はできており、その時が来るのを待ち続けており、「今だ」というタイミングをつかまえていよいよ踏み出したというわけだ。確信とは、徹底した準備と待機の上にある。そして私は、その先に幸あれかしと心から願う。


2017年3月14日火曜日

シンガポール2017春

今年もシンガポールデザインウィークの取材に行ってきた。
正直言うと、本当のところを言うと、「今年はどうしようかなあ」と思っていた。もちろん昨年もそれなりに刺激的ではあったが、初めてのシンガポールだったこともあり、デザインウィークというよりは、スマートでクリーンな街並みにそびえたつ異形の摩天楼や、ミックスジュースみたいな多文化の混交具合にすっかり昂ぶってしまい、この国のデザインについて冷静に考える余裕などなかったような気もする。そんでもって最後は恐怖のタクシードライバーに全部もってかれてしまったし。(去年の投稿

しかし、色々ご縁があって今年もまた行くことができた(声をかけてくださった関係者に心から感謝している)。そして今年こそ、ほんとうにシンガポール人の「デザイン」に向ける本気度を思い知ることになった。その詳細については、本業の役割としてこれから必死で原稿に落とし込まなければいけない。ただ一つだけここで言えるとすれば、今年のシンガポールデザインウィークの最大の見どころは、シンガポールのデザイナーが「大きな物語を語りはじめた」、ということだ。

例えば、50年後のシンガポールの姿、あるいはものすごいスピードで失われていくローカルの熟練技術、国民の8割が暮らす公共住宅「HDB」における生活のあり方――。2015年に建国50年を迎えて、100周年に向かう今後50年をいかにしてデザインしていくのか、ということを最前線で活躍する30代の若きデザイナーたちが真剣に考え、伝える取り組みに従事している様子が印象的だった。

彼らにとってのデザインは、ものを作ったり、絵を描く、といった身の回りの次元をとっくに超えている。もっと大きなレベルのビジョンを描き、それを伝え、繋いでいく。そのためにデザインのスキルを使う、使い始めた、ということなのだ。・・・・いけない。このまま勢いに任せて然るべき原稿の領域まで踏み込んでしまいそうだ。まあ、そのくらい見るべきところがあった、ということが言いたかった。

AXISウェブマガジンでシンガポールデザインウィーク2017の連載中。こちらを御覧ください。


今回の旅の終わりに1つ、印象的な体験があったので紹介したい。
最終日の朝、今回ご一緒したインテリアスタイリストの長山智美さんに教えていただいたオススメの観光スポット、「チャイナタウンヘリテージセンター(Chinatown Heritage Centre)」に行ってきた。


19世紀から1950年代にかけて数百万もの中国人が本土の飢饉や貧困から逃れ、新天地での成功を夢見てマレー半島に渡った。植民地の労働力としてインド人やアラブ人などが既に入っていたため、「新客」と呼ばれた中国人の住居兼店舗(ショップハウス)が長屋のように集積する一体がチャイナタウンである。同センターでは実際にショップハウスで生活を営んでいた仕立業の家主一家と共同生活者たちの品々をそのまま保存し、展示している。イヤホンガイドの解説を聞きながら一部屋ずつ巡っていくのだが、訪れたのが朝一番だったためか私のほかに客がおらず、 1人で薄暗い長屋の部屋を見て回った。




長屋の中央付近には吹き抜けがあって、天窓からわずかな光を取り入れる工夫もある。しかし基本的には「穴ぐら」の生活だ。洋服の仕立てというスキルを持つ家主は1階に店を構えて、裏に工房を持ち、何人もの奉公人を抱えている。その2階では互いにすれ違うのも難しいほど細長い廊下に沿って2.5✕2.5メートルほどの小部屋がずらりと並び、1部屋ごとに「クーリー(苦力)」と呼ばれる人夫や車夫といった職業の人々が肩を寄せあって暮らしている。トイレや台所は共同で、部屋は薄い板で仕切られているだけ。快適やプライバシーなどという言葉はここには存在しない。

熱帯での厳しい肉体労働の疲れを紛らわすために給料の半分もする阿片を吸い、阿片を買うためにまた働くという悪循環に陥いる者も少なくない。そうかと思えば、木製サンダルを作って成功し、収入がそれなりにあるにも関わらず、中国に帰る日を夢見て懸命にその金を蓄える職人の一家もある。そう、彼らはいつか母国に帰りたかった。





一方で、過酷な生活のなかにも、結婚して子どもが生まれたり、季節ごとの祭祀といったささやかな楽しみや希望もあった。ある部屋のなかで、まもなく生まれてくる子どものために用意された粉ミルクの缶や、小さな枕に載せた玩具を見つけた時、思わず目頭が熱くなった。この「穴ぐら」で必死に日々を生きていた人たちの息づかい、囁き、怒号、すすり泣き、そして幼い子どもたちの笑い声。室内に雑然と置かれた無数の品々から、彼らの気配や体臭が立ちのぼってくるような気がする。生きる、とはなんなのだろう。「人間」ということの宿命を思わずにはいられない。





2階の窓から通りを見下ろすと、多くの観光客がそぞろ歩き、鮮やかなオレンジやブルーのペンキで塗られたショップハウスを憧れのような眼差しで見上げては、カメラのレンズを向けている。南国らしく底抜けに明るくカラフルな壁の向こう側で、ある時代を泥臭く生きて、生きて、生き抜いて、国の基礎を築いた人々がいたということ。しかし、現代の「スマートでクリーンなイケてる国」として知られるシンガポールにおいては、彼らの「物語」が声高に語られることはもはやないのかもしれない。(終)