2017年6月12日月曜日

バランス

マーリア・ヴィルッカラ「Beyond this Point」
2017.6.9fri - 7.9sun
ART FRONT GALLERY(代官山 ヒルサイドテラスA棟)

揺れるブランコに乗っているのは、水の入ったガラス。
宙に浮いたまま回転しているのは、棺を載せるための荷車。
自重(存在)と、重力(宿命)と、運動(抵抗)による、あやうい均衡の遊園地。






先日はじまった北アルプス国際芸術祭(〜7月30日)でも、サイトスペシフィックな作品を展開しているという。

2017年6月6日火曜日

片目を閉じろ



週末の野営で左瞼を虫に噛まれた。
翌朝どうも視界が狭いので鏡をのぞいたら瞼がパンのように膨らみ、なかなか壮絶な形相に仕上がっていた。

そのまま出歩いて人が驚いたらいけないので眼科に行き、薬局で眼帯を贖ってつけている。右の眼球が懸命に認識する世界はどことなく不均衡で、薄暗い。遠近の感覚もいつもと異なり、地下鉄の急停車で思わずつかんだのは手すりではなく宙空。前方に立てる人の背中につんのめりそうになった。

ひとつ気づいたのは、眼帯を装着しているとなぜか口が半開きになることだ。口を閉じようとするとどうも息苦しい。突然狭くなった視野を補うため、少しでも知覚をひらいて情報を得ようとするためなのか、ああ。





というわけでDIC川村記念美術館のヴォルス展。
若々しい野心と観察眼をもって切り取った路上の写真や、繊細な線と色が戯れる水彩。


「酒に溺れ、貧しく、虐げられた生活」と書かれてきた芸術家だが、実は、日々の小品の創作を通して世界とつながり、自分だけの宇宙を創造する楽しみすら感じながら暮らしていたのかもしれない。

そう思いたい。そう思わせてくれ。そのくらい、一連の水彩画はみずみずしく、眺めていると軽やかなピアノの音がコロコロとこぼれてきそうである。





記憶に絡みつく、蜘蛛の糸のように繊細なインクの線。息を吹きかけたら一瞬で消えてしまいそうな、針の先で慎重に引っ掻いた線。

まるで空気の正体を描くために導かれたようなこれらの線は、ヴォルスが「目を閉じているうちにつかんだイメージ」なのだという。その対象とかタイトルとか、もはやどうだっていい。ジャズだろ、これは。




自由な表現を得るために、目を閉じてみる。
この世で、芸術家が生き延びるために編み出した1つの方法だ。刮目と睥睨だけが芸じゃない。


虫に噛まれたのも何かの縁。しばし目を休め、内なる声に耳を澄ませてみる。




2017年5月23日火曜日

REI


地球上のどこかで、同時に呼吸をしているというのに、まみえることの恐らく叶わない、だけど無意識のうちに憧れてやまない、ある女性の言葉とドローイングに、無謀にもシンクロを試みている。ほとばしる赤。腑抜けた自分に気合を入れるため。


もっと強くなりたい。挑んでも、挑んでも、敗北感にさいなまれる。40年間服をつくりつづけながら、一度も心から満足したことがない。満足するのが怖い。満足してはならない。満たされたら、そこできっと創造が尽きてしまうから。

だから自分の前に壁を建てる。より高く、より厚く、より無情な、とても乗り越えられそうにないような壁。これを越えるため、怒りや不安、恐怖、痛みをエネルギーに変える。そして乗り越えたら、乗り越えてしまったなら、また新しい壁を建てる。限界や境界の先にしか、誰も見たことのない新しいものは存在しないから。



すべて私の勝手な解釈と妄想。
虚空のなかに見いだすのは、頼りない自分の顔。
本当のことを知りたければ、コム・デ・ギャルソンを着てみるしかない――

(ニューヨークで開催中の展覧会について、彼女は当初、服を来場者に触れさせようと提案していた[図録より]。が、美術館側の“セキュリティ上の理由”で退けられた。実際にさわれるかどうかはともかく、タンジブルを実装できないファッション展やデザイン展の限界はそこにある。店に行けば好きなだけさわれるからだ)

――すると、完璧な戦闘服のようだと思い込んでいたそれは案外、このみっともない人体を抱きしめるための、強さと繊細さをあわせもつ繭のようなものなのかもしれない。



2017年5月19日金曜日

五月病

作業を放棄し、夕食の買い物ついでに散歩に出た。半時間ほど前の雷雨は西へと流れ、頭上の空は柔らかな日差しを取り戻しつつあった。

住宅地の庭にわを見やると、強烈な雨粒に打たれた薔薇の花びらが地面に落ち、鮮やかな絵具をまき散らしたようになっていた。天の寵愛を受け、この世のすべてを手に入れたかのごとく咲き誇っていた薔薇も、散り際はあっという間。時代はあらゆる栄華を忘却し、少なからぬ冷酷をもってうつろう。弥生の雨が新緑を連れてきたように、皐月の雨がまもなく次の季節を連れてくる。新しい若葉は日毎に濃く、その周辺であらゆる生き物が伸び盛りの生命を謳歌。たっぷりと水を抱いて嬉しげなそこかしこを眺め歩くうち、ようやくこちらの気分も少し軽くなった。

なにしろこの一週間、あらゆる点において重い日々を引きずっていた。読まれなければ商品価値のない駄文を懸命に捏ね繰り回し、「美女と野獣」も観ずに孤独の作業のなかに自らを幽閉していた。「届けなければ」と使命感の手綱を引き締めるが、いっこう進まぬ馬、否、筆。焦る。このまま闇雲に己を駆り立てたところで到達する先も見えぬ。で、ふて寝。世間はこれを五月病と呼ぶのであろうか。

哀しみ、悲哀、切なさ、やるせなさ。
心の空白、悲痛、メランコリック、やるせなさ。

駅前から続く「ニコニコドーロ」なる小径を仏頂面で通過しスーパーへ。ここは主婦の束の間の欲望を満たすスーパーマーケティングマーケット。狂気の電子音と赤札が消費者を盛大に鼓舞し、財布の紐を弛緩させる。我が目下の興味関心は四時を回り、全身白衣の鮮魚係によってもったいぶって三割引きシールが貼られた寿司の折り詰めを手に入れることだ。

当初、梅のつもりが、「あら三割引きなら」と松も選択肢に入ってくる。本来、竹のあるべきスペースが空になっているのはスーパーマーケティングが仕掛けた一手か、あるいは葛藤の末に中庸を選んだ主婦の涙ぐましき理性の痕跡か。であれば「考えもなく松に飛びつくのは尚早」と、冷蔵ケースの前でネタの差分と価格の均衡についてしばし考えを巡らせる。

「得したい」と「損したくない」ではどちらが建設的な態度であろうか。結論が出ない代わりに、「人生とは待つことである」という脈絡なき一文が思い浮かぶ。であればやはり松の一択と手を伸ばした瞬間、背後の老婦人が最後の一折に手をかけた。ノン、マダーム。声にならぬ悶絶を飲み込む。人生とは。前言撤回、「人生とは生き埋めである」と己をなだめて梅を確保。とはいえどうにも口惜しいので、隣に遠慮がちに並んでおった百円引きの鮭といくらのちらしもかっさらって籠に収めた。


空晴れて、安売りの寿司を贖った。ただそれだけ。悩むことなど、一切あらないよ。



2017年5月16日火曜日

2017年5月13日土曜日

真柏

生きながら、死んでいる。
死にながら、生きている。



2017年4月26日水曜日

アートとはコトである。



幼い頃から娘をベビーカーに乗せて、美術館やらギャラリーを連れ回し、とにかく見せた。わかろうが、わかるまいが、とにかく浴びせるように作品を見せるのがいいことなのだ、と思いこんでいた。

写生コンテストで娘の絵が選ばれたことがあって、エスカレートした。しかし度が過ぎたらしく、遂に「アートなんてきらいだ」と言わせてしまった。娘には娘のやりたいこともあるし、遊びたい友達だっている。それもわかるし、なんとなく熱が冷めて(正直、面倒くさくもなり)、一緒に美術館には行かない時期が続いていた。森美術館のN.S.ハルシャ展(6月11日まで)の2日間のキッズ・ワークショップ「ナイト・ジャーニー:夜への旅」に申し込んだのは、そんなブランクを経て、久しぶりに「親子でアートを楽しめたらいいな」と思ってのことだった。

ファシリテーターの人と一緒に作品を見る(1日目)

南インド・マイソール拠点のアーティスト、ハルシャは子ども向けのワークショップでも知られる。今回は「東京にきてインスピレーションを受けて、はじめて試すプログラム」とのこと。やることは2つ。

(1)自分が考える「ヒーロー」に扮すること
(2)夜の街に出て、「光」を描くこと

なぜ「ヒーロー」かというと、「子どもたちこそ、未来をつくるヒーローだから」というハルシャの考えから。子どもがヒーローについて考えることは、未来の自分や世界について思いを巡らせるということなのだ。親子で話し合って考えてね、という宿題なのだが、これが難しかった。



8歳の娘は、女の子にとってのヒーロー(ヒロイン)とはアイドルのことだと思っている。「扮する」とはコスプレのことだと思っていて、「おへそを出したい」とか言う。私も8歳の時はそうだったのだろうか。

「まあそれでもいいんだけど、もうちょっとさ、カワイイとかキレイとかじゃなくて、ヒーローって困っている人を助けたり、世界を平和にするために悪と戦うとか」と振ってみるが、どうもそれは「女の子らしくない」とピンとこないようだ。

結局、ずるいのはわかっているが誘導してしまう。「じゃあさ、明日は夜の街に出て絵を描くわけだから、夜のヒーローなんてどうかな。夜の街から光をつかまえてきて、暗い世界を明るくしてくれる。どうせなら、みんなのなかで一番目立っちゃおうよ」「うん、それならいいよ」



私の黒いユニクロのセーターに、アルミホイルやすずらんテープ、家にあった装飾用のテープを細かく切って、2人でボンドで貼り付けていった。アルミホイルはできるだけたくさん貼ってキラキラの鱗みたいにして。

「夜のヒーローは街中の光をつかまえて、虫かごに入れるんだよ。そして、心の寂しい人がいたら配って元気にしてあげよう、アンパンマンみたいに」「このテープは涙みたいだね」「どうして」「泣いている人の涙と引き換えに光をプレゼントしているから」「すごくいいじゃない。明日はこれを着て、たくさん光をつかまえて、絵を描こうよ」

こういう時、親としては完全にほったらかして娘の想像力に任せるべきなのか悩む。でも、やってみてわかったのだけれど、傍観者になって見守るより、子どもと一緒にこの世界に入り込んで、同じ目線でやり取りする方が、たぶん親も楽しい。

けやき坂に繰り出す(2日目)


2日目は夕方5時半に美術館に集合。15人の子どもたち、それぞれのヒーローに着替える。サッカー好きな子はサッカー選手に、マンガ好きの女の子は手塚治虫に。「お母さんこそ英雄」だとエプロンを身につけて現れた子もいる。「未来の自分こそヒーロー」という男の子はいつもの格好で堂々と。みんないろいろ考えてきたんだなあ。



それから六本木ヒルズからけやき坂へ移動する。外はすでに暗くなっていて、街路灯、街路樹のライトアップ、行き交う自動車のヘッドライト、華やかなブランド店舗や飲食店の照明、少し先には東京タワーが濃紺の空にくっきりと浮かんでいる。夜の東京は随分と光にあふれている。それがハルシャの1つの視点だ。「夜間にはあまり外に出ない子どもたちにとって、夜の光とはどう映るのだろう。さあ、黒い画用紙に光を描いてみてください」。





そもそも夜に出歩くこと自体、子どもにとってはスペシャルな時間だ。小さなアーティストたちは、それぞれ自分だけの光を追いかけて、けやき坂に散り散りになった。娘は坂の一番下までかけ降りてゆき、「光る石」を見つけると、その前に陣取った。黒い画用紙を据え、「いざ」とパステルを振りかぶる。

私は「雨に消える椅子」のほうに座って、なるべく気配を消しつつ眺めた。「私ならこうするけどなあ」。思わず口を出しそうになるのをぐっとこらえる。キッズ・ワークショップというのは、大人にとって楽しくも試練の時間でもある。困っていたら助けたいが、決断する時と集中している時は子どもに任せるのがいい、たぶん。



娘はパステルを学校で使ったことがあるらしく、なんだかパフォーマー気取りで、鼻歌でも歌いながら指の腹でパステルを黒い画用紙の上に伸ばしていく。そこにハルシャがやってきて、「まるで魔法みたいだね」と娘に話しかけた。そして「一番光のまぶしいところには白いパステルを使うといいかもしれない」とアドバイスしてくれた。

ハルシャと、ファシリテーターの吉田さんと

この日はとても寒くて、冷たい風に身体が凍えたが、娘はお構いなしだった。「光る石」を描くのが少し落ち着いたところで、「まわりに反射している光はどうするの」と尋ねてみた。「夜のヒーローは光をつかまえることができるんじゃない」「目の前を走っているクルマのライトをつかまえちゃおうよ」。それで2人で両手で狙いを定めて、光を掴んで、画用紙の上に落とす振りをした。こうなったら、徹底的になりきるのだ。子ども、大人、関係ない。歩行者の人達からは奇異の目で見られたが、それも面白かった。2人にとって「生まれてはじめてのこと」をただひたすら楽しんだ。




美術館に戻ってから、全員の絵を並べてみんなで眺めたが、ハルシャはいちいち講評することもなく、1人ずつ感想を聞くなんてこともしなかった。そんなことをしなくても、言葉で確認しあわなくても、みんなが十分に満足していることを知っているからだ。「もちろんどの作品もすばらしいです。でも作品よりも大事なのは、あの時間のなかで子どもたちが何を感じたか、親子でどんなやりとりをしたか、ということなんです」。



アートとはモノではなく、コトである。
体験の強度の問題である。
空気のように、振動のように、五感から伝わるものである。


教えているつもりが、教わっていた。娘のおかげでそのことをやっと実感できた、新鮮な体験だった。

イベントのレポートは、森美術館のブログでも。


2017年4月20日木曜日

琺瑯 HORO

松屋銀座で、小泉誠さんの仕事を拝見。



[第734回デザインギャラリー1953企画展]
プロダクトの絶滅危惧種
2017年4月16日(日)−5月15日(月)
松屋銀座7階デザインギャラリー1953

「絶滅危惧種」にはドキリとするけれど、「琺瑯」という、読めなくはないこの、「いかるが」っぽいというか、どこか高貴な薫りのする字面がまずもってよいではないか。

紀元前1400年のギリシャにはすでに金属にガラス質の釉薬をかけるこの技術があり、エジプト・ツタンカーメン王の黄金マスクも琺瑯でできているという。主に装飾技術として日本にわたってきたのは飛鳥時代とのことだが、はっきりそれとわかるものが残っているのは正倉院の「十二陵鏡」(8世紀)。桂離宮の建具の引き手などにも使われているそうだ。

一方、実用品としての琺瑯は、日本では1866年にはじめて琺瑯の鍋がつくられた。その後、陸海軍の食器としても採用され、昭和初期までに市民の生活に広く浸透していった。しかし戦後の高度経済成長、プラスチック、アルミ、ステンレス製品の台頭により、手間のかかる琺瑯の製造者は激減。今や、国内ではメーカー4社のみであるという。

ちなみに我が家ではずっと野田琺瑯の月兎印のポットを使っている。軽くて、気軽で、手に馴染む。とにかく軽いからキャンプにも持っていく。IHも直火もいける。乱暴に扱うので釉薬が欠けてしまった部分がところどころあるが、まだまだいける。まだまだ愛せる。

そうしたら、小泉誠さんが琺瑯のキッチン道具をデザインしているという。国産琺瑯がなくならないために、また琺瑯の魅力を伝えるために。墨田区の金属加工と三重県・桑名の琺瑯加工を組み合わせた「kaico」シリーズ。ケトル、コーヒーポット、片手鍋、両手鍋、オイルポット、保存容器にグラスまで。新作の「ドリップケトルS」は、ドリップに特化したちょうどいい湯口。



松屋銀座での展示もとっても素敵だ。ドリップケトルができるまでの工程を、パラパラマンガのように1つずつ見せていく。最初はたった2枚の鉄板が、だんだん立ち上がって立体になって、何度かうわ薬をかけられて、最後ケトルになるまでの物語。簡単にはできない。たくさんの作業を経て、少しずつ、少しずつケトルになっていくんだなあ。小泉さんの仕事には、いつだって「こつこつ」のものづくりに対する愛のまなざしがある。そんなわけで、朝は決まってコーヒー豆を挽くところからはじまる我が家にも、そろそろドリップ専用の琺瑯があってもいいかもね。







※4月26日(水)−5月9日(火)は、松屋銀座7階デザインコレクションにおいて、関連企画販売「日本の琺瑯」を開催。

※5月2日(火)には、小泉誠さんを囲むデザインサロントークとバリスタを迎えるイベント。詳しくはウェブをご確認ください。

2017年4月14日金曜日

納得しようとするのをやめる


高尚なことは何ひとつわからない。これが音楽なのかどうかも。
ただ、こんこんと湧きでて空間を満たす豊かな音のなかに静かに座っていると、不思議な没入感があって、瞑想でもしているような心持ちになる。ベンチに腰掛け頭を垂れて、耳を傾ける人々の姿は、どこか祈りにも似ている。

私も心ゆくまでここに腰掛けていたい、その後の予定などどうなってもいいから。意味、意義、意図の解釈なんてどうだっていいんだ、この場に同化しさえすれば。もし、それが音楽ということなのならば。



アピチャッポン、ZAKKUBALAN、高谷史郎による3つのインスタレーションは断片的に重なり、やり取りが感じられる。会場全体が「async(非同期処理)」の館だ。



美術展における聴覚の喚起には計り知れない可能性がある。まわりにいる人々の存在はいつしか掻き消えて、私自身が音と光の波のなかに溶けていく恍惚感。それを味わうために、とにかく会場に足を運んだ方がいい。

坂本龍一|設置音楽展
2017年4月4日(火)−5月28日(日)



2017年4月9日日曜日

I’ll remember April

私はきっと4月のことを覚えているだろう。いつもそれは4月に起きて、世界をまるごと刷新してしまうのだ。

桜が満開の花曇りの日に、山下洋輔さんのコンサート。歓喜とイマジネーションに満ちた「SAKURA」に心踊る。漆黒のスタンウェイ・アンド・サンズから咲きこぼれる、あふれんばかりの桜花。次から次へと花びらが舞いあがり、空の彼方へと流れゆき、待ち望んだ春の訪れを祝福する。


覆いかぶさるように、慈しむように。鍵盤の上を優しく強く撫でてゆく好々爺の節くれた美しい指先が、宇宙の隅々から微細な音の粒子をかき集めて。壮大な心象の砂絵を描くように、無数の音粒たちを宙空のキャンバスいっぱいにふりかけて、次の瞬間にはそれらを一気に引き寄せて隠してしまう。

日本が誇るべきピアニスト、否、鍵盤詩人はその両眼をしっかり閉じたまま、思うままに波を描き、山を描き、そこを昔の子どもたちが賑やかに走りすぎてゆく。その残像がかろうじて私の耳にしがみつく。

私の耳にははっきりと見える、里山を駆け下りる一陣の風が春の神様の裾を引いて遊ぶ様子や、壊されるのを免れた明治の要塞が赤褐色の煉瓦の1つ1つに内包する記憶をさも愛しそうになぞる様子やら。

音は色。指は絵筆。歳を重ねるほどに心の風景画は華やかに、まろやかに、そしてどこまでも甘く。そこに言葉はいらない。私のほうは、はじめてその音に出会った20年前と何ら変わらず、ただ魂が惹かれるだけ。



2017年4月4日火曜日

リー・ウェン最新作『Birds(鳥たち)』



シンガポール人アーティスト、リー・ウェン(1957−)。全身を黄色に塗り、「イエローマン」(1992−2004)というペルソナで人種差別や言論・表現の自由に挑んだアーティスト。



時は経て、2007年にパーキンソン病を患ってからは、色鉛筆を握りしめて、羽ばたく青い鳥を描く。それはリハビリか、プラクティスなのか。経を読むように、繰り返し飛翔を描き続ける。飛びあがったかと思うと空中で旋回しながら急降下し、大空と戯れ、暴れ、自由を謳歌する鳥。連作で眺めると、それはまるでキネティック・アートかパフォーマンスのよう。



リー・ウェンが色鉛筆を選んだのは、力を入れなければならない画材だから。水彩絵の具のようにはいかない。自分が求める濃度にするには動かぬ身体に鞭打ち、手に力を込めなければならない。その筆圧はコットン紙のざらついたテクスチャーをつるつるに伸ばしてしまうほど。特に鳥のシルエットは、鉛筆の先が丸く平らになるまで入念に力をかけるから、鮮やかな青のストロークは痛々しいほどに紙の上に刻まれる。



発病の時、リー・ウェンは自由を失っていく己の身体を呪ったことだろう。自由を求めて躍動した「イエローマン」の輝かしい時代を思い出しては、今の境遇を憎んだことだろう。しかしリー・ウェンは生き続けなければならない。アーティストとして表現し続けなければならない。彼の青い鳥は、自由に向ける羨望と、なんとしてもそれを再び獲得したい、あるいはそれ以上の自由を、という不屈の精神の表われなのだ。


2017年04月01日(土)~2017年04月23日(日)

会場:アーツ千代田3331 1F 3331 Gallery

会期中は作家の滞在制作も

2017年3月24日金曜日

ミラノデザインウィーク行くなら「toolbox EXHIBITION_THE STORE」

アクシスにも何度か登場している京都のデザインユニット「toolbox」が、ついに、満を持して、ミラノデザインウィーク(ミラノサローネ)に乗り込む。「人がたくさんいて埋もれちゃうし、大変だし、ミラノじゃなくて常夏のシンガポールにしたら〜」などというゆる〜い誘惑には決して乗らない人たち。仕方がない。だってやっぱり、メンバー(特に竹内氏)の心の故郷はイタリアなんだもの。数年前から視察して、準備して、いよいよ。キレキレの手業と半分狂気の思考で、ミラノの皆さんをびっくりさせちゃってほしい。あー、見たい!ブレラ地区、行かれる方はぜひ。



個展概要:
「toolbox EXHIBITION_THE STORE」
BRERA DESIGN DISTRICT
FUORISALONE DESIGN WEEK
会期:2017年4月4日−9日
時間:10:00−19:30
場所:THE STORE
Via Solferino, 7, 20121 Milano
詳細:BRERA DESIGN DISTRICT
http://fuorisalone2017.breradesigndistrict.it/evento/329/toolbox-exhibition_the-store


toolboxからのメッセージ:

今回は3つの新作を発表いたします。
まず、tool no.20の展開として、会場のショップ什器をデザインしました。
椅子、テーブル、棚、のファミリーとしてインテリアを構成します。
仮設的に使用されるショップ什器をバラした際に
それぞれのパーツが、素材として別のプロダクトに転用可能となるように、極力加工を減らし、たった一つの接合方法で、ビスによるノックダウン方式をとっています。



tool no.19は「起き上がり小法師」のように自重でバランスをとって自立する時計です。
置き時計から床に設置するための脚を消し去りました。



tool no.21は同じ形状のパーツの反復使用による工業生産的な思考と、マニアックな接合ディティールの工芸的魅力が同居したような作品となっています。


展示会場では、中川による新作にまつわる新しいムービーの公開と、
大西による、toolbox BOOKを来場者に配布する予定です。


toolbox
クリエイティブな木製品を生み出すtoolboxは、プロダクトデザイナー赤西信哉、竹内秀典を中心に、写真家/グラフィックデザイナーの大西正一、写真・映像作品を手掛ける中川周の4名で活動するユニット。
ウェブサイト:toolbox-kyoto.com
インスタグラム:https://www.instagram.com/toolbox_kyoto/


なにこの脚、どうなってる?!

現地ではみんなで自炊。カルボナーラ。ミラノ満喫しとる!