2016年8月17日水曜日

餓鬼草紙



気づけば公開がまもなく終わってしまう。

「池を壊して(水が飲めないよう)旅人を苦しめた」「仏前にそなえた花を盗んだ」といった比較的軽め(?)な罪によって餓鬼となり、獄卒に火の塊を呑まされ、鳥には腹を突かれ続けるというなかなかシビアーな世界観。

ところが、これほど酷い目に遭っているのに、彼ら生き生きとした表情で、楽しげに人間の糞尿を喰らっているではないか。餓鬼たちの目のキョロキョロした感じや、その辺に散らかるチリ紙一枚まで描写が細かく、見る度に新たな発見があるから、何度でも見たいし、眺めていると「人生どうにかなるさ」とポジティブな気分になってくるから不思議だ。いっそのこと、恥も外聞もなく、こんな風になっちゃいますか! となると、この絵巻は何をもって真の目的としているのか。

たいていの宗教絵画において天国はよくわからないから抽象的な雲に覆われてぼんやりとしている。一方、地獄の描写はかなりリアルである。人々が罪を犯すことを恐れなければならないからである。

地獄のモデルとなったのはある意味「日常」だった。これらが描かれた頃は、おそらく戦争や疫病や飢饉など、日々の風景こそが地獄そのものであった(かもしれない)。絵師は気合と恨みと皮肉を込めて筆を握り、鑑賞者も「うわぁあ」とか言いながら、「これよりは今の状況の方がマシか!」などと思いながら、眺めていた(かもしれない)。

(※画像は順不同)
















そのようなわけで、実は、昨年の秋くらいから六道絵に惹かれ続けているのである。
きっかけは、東京・増上寺で開催されていた狩野一信の「五百羅漢図」展(前期:2015年10月7日(水)~12月27日(日)| 第21幅~第40幅展示)で六道のうち三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)の場面を見て、生き生きと描かれる地獄の景色に吸い込まれてしまった。それから六道絵の作品集などを取り寄せて食い入るように見ている。なんというか、地獄というのは中毒性がある。

同時期、森美術館で開催されていた村上隆展の五百羅漢図も見に行ったが、残念ながら私のような素人の目には地獄が描かれていないように見受けられた。地獄は、シンボリックな火炎や髑髏を並べるだけでは不十分かと思う。そこで果てしなく苦しみ続ける人間たちの生々しい姿、苦しみを通りすぎて恍惚とした表情を描かなければ――。それはともかく。

私の地獄めぐりはまだまだ始まったばかりだ。