2016年2月22日月曜日

最近の展覧会


両展とも心待ちにしていた。

現代アーティストの爆買いぶりが彼の作品よりも称賛される心細い時代、芸術の志ということについて真剣に考えたくなる、近代美術館二館での展覧会。
大きくうねる時代のなかで、日本の芸術家たちは何をしてきたのか。丁寧に掘り下げていく、学芸や研究者の方の力量を感じる意欲展。


原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし
埼玉県立近代美術館
2016年2月11日(木・祝)~3月27日(日)


あの頃、政治や文学で国を変えたいと思うひとがいたように、芸術で世の中を変えたいと本気で信じてヨーロッパに渡ったひとがいたということ。

原田が留学先のミュンヘンで描いた老人や神父は、20代前半の学生の絵とは思えない気迫で人間の生き様を描ききっている。強い何かがたちのぼっている。このひとは信じていたんだろう、本気で、俺がここで習得した西洋画の技術でこれからの日本を変えてゆきたいと。

高い志。帰国後、原田を待っていた洋画排斥の逆風のなかで一人戦う男。

一方で莫逆の友、森鴎外による『うたかたの記』のモデルとして、狂気と繊細のあいだで心揺れる若い画学生像とのイメージの隔たり。ミュンヘンでの人間・原田直次郎のことはまだわからないことが多く、だからこそミステリアスで興味が尽きない。


(2月24日追記)
あれから原田直次郎が気になって読み始めている。『森鴎外と原田直次郎』(東京藝術大学出版会)における新関公子先生の考察や仮説がイマジネーション豊かでとても興味深い。鴎外が日記に記した原田のこと、ドイツ三部作『うたかたの記』『舞姫』『文づかい』における原田の境遇を思わせる描写など、親友・鴎外を通じて見る原田像が生き生きとしている。

まあ、どうしても芸術家たる原田君は夢をみてゐた人だね。夢を見て死んだ人だね。私は何でも二つに分けると云うやうで可笑しいが、芸術家を、夢見る人と見ない人の二つに分けることも出来るだらうと思う。(森鴎外「再び原田の記念会について」『国民新聞』明治四十二年十一月二十九日インタビュー記事)

私は森鴎外の文学者としての大きさ、人間としての精神の豊かさを知るにつけ、原田直次郎という画家は、かくもすばらしい文豪から溢れるような愛情を注がれるに値した男だったのだろうか、という疑問をずっと抱いていた。美術史の世界でもながく研究の谷間に置かれてきた画家である。何よりも残された作品の数の少ないことが、作家研究を難しくしているのであろう。しかし、この稿を書き終えてみると、原田直次郎という画家は洋画の逆境の時代にあって、龍池会に乗り込んでたった一人の反乱を試みるなど、高潔な志士の気概を持った好男子であったと実感できた。権威、権力に恬淡としていたところが、鴎外には真似のできない点だった。(新関公子『森鴎外と原田直次郎』より)

本展の会期終盤にあたる3月23日からは東京国立博物館・平成館で「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展がはじまる。志半ばで夭折した原田と入れ替わるようにして、その後の日本洋画壇ひいては美術行政そのものを牽引した“巨匠”。そこにはもちろん鴎外の姿も。時系列で日本近代美術の転換期を眺められるこの好機を逃す手はない。




恩地孝四郎展
東京国立近代美術館
2016年1月13日(水)~2016年2月28日(日)

昨秋東京ステーションギャラリーで開催された「月映」展に続き、恩地の版画に再びまみえる嬉しさ。
日本の抽象画を切り拓いた恩地孝四郎の画業にフォーカスした回顧展はとにかく充実。図録も分厚い。生業としたブックデザインの仕事もアイデアに溢れて素晴らしく、むしろ版画よりも明るく生き生きして見えるのは気のせいだろうか。

一方で私は恩地の版画のそこはかとない暗さが好きだ。実験的で自由にみえるかたちのなかに、なぜか惹きつけられる鈍色、灰色がかった暗めの色あいが貫かれる。それは恩地が生きた時代の色、恩地自身の人生に通底した色のようにも見え、そこにリアリティを感じる。


(2月25日追記)
1896年(明治29年)東京美術学校にようやく西洋画科が設置され、教官のポジションに“勝ち組”代表の黒田清輝が抜擢される。本来その座に就くべきだった原田直次郎は病が重く、もはや寝たきりの状態。鴎外は複雑な心境ながらも嘱託として西洋美術史を教える立場についた。

14年後(1910年)、この東京美術学校予備科(西洋画科志望)に恩地孝四郎が入学した。ただし本科には進めず、翌年彫塑科志望に入り直すのだが。それ以前に恩地は憧れの竹久夢二に面会してすっかり影響を受けまくっており、学校では優良な学生とはならなかったようだ。結局、退学処分となってしまう。しかしここで田中恭吉、藤森静雄と出会って同人誌『月映』を出すことになり、それが自身の版画業の始まり、さらには日本版画の近代化の先鞭をつけることとなるのだから学校も意味がなかったわけではない。

恩地もまた版画の地位向上のために一人戦った人。しかしその価値はなかなか認められなかった。かつて浮世絵がそうだったように、日本人がきちんと評価できずにいるあいだに海外に流出していってしまった。恩地の作品、特に戦後の版画がそうだ。

戦前から戦後まで一貫して抽象絵画の存在意義を主張し、日本版画の近代化のために孤軍奮闘したにもかかわらず、国内で充分な理解を得られなかった恩地に、一近代人としての芸術家の悲哀や苦悩を見ることができよう。ただ、恩地自身は実際には、日本の画壇や観衆に自分の版画が理解されるなど期待していなかった。むしろ諦観していたというほうが正しいだろう。だからこそ、1枚か2枚しか摺りのない戦後作品を理解者であるアメリカ人に惜しげもなく渡していたのである。
つまり現在、恩地の戦後版画の多くが海外の美術館に所蔵され、日本で見ることが叶わないのは、作家自身の選択でもあったのだ。(本展図録「恩地孝四郎:戦後抽象版画の展開」(桑原規子)より)

さて、今日の状況はどうだろうか。

私たちは何を評価し、何を見過ごしているのだろうか。

そう考えると、爆買いという評価の仕方があるということも、できるかもしれない。。