2016年2月17日水曜日

建築家F・Gの言葉

※展覧会は終わりましたが、内容は記者発表会の要約メモ。割愛した部分もあります。ご参考まで。



建築家になったきっかけ?
説明するのに4時間かかるよ。

一番最初は、そう、ぼんやりと覚えているのは、父親と母親との生活が教えてくれた、何かをつくる、ということ。でも子供だったからよく分からなかった。とにかく貧しい時代だった。


それから大人になってロサンゼルスでトラックの運転手になった。
夜はロサンゼルスのカレッジ、大学(University)じゃない方に、通って。

科学とか、数学とか、たくさんのことに興味があって取り組んだけれど、出来はあんまりよくなかった。落第して、悔しいからもう一年やって、今度は片っぱしからAを取った。
それが、僕の「First Blick」(一段目のレンガ)。

学校の友達がラジオのDJをやっていて、それがすごく面白かったから僕もラジオをやりたいと思ったことがある。でも、みんなに止められた。声が、きっとよくなかったんだと思う。あとクラスで製図の授業をとって、それがとても「よかった」って先生が励ましてくれた。
それがきっと「2nd Blick」(二段目のレンガ)。

陶芸のクラスもとったけれど、それは先生もうろたえるほどの酷さで、とても見せられたものではない。でも先生は僕のことを気に入ってくれて「助手になれ」と誘ってくれたこともあった。

その先生は磁器作家としても割とすごい人で、とくに釉薬、セルリアンブルーのとてもきれいな磁器を作る人だった。自宅を、ラファエル・ソリアーノというミニマリストの建築家、日本だと安藤忠雄みたいな人、に設計してもらっていた。その器の先生が「君は建築のクラスをとりなさい」と言ったんだ。

それで僕は南カリフォルニア大学で毎週月曜日の夜に建築の授業をとった。
すぐに飛び級して2年目のクラスに入った。

でもその大学の先生が僕に「君は建築家になるべきじゃない」と言ったんだ。後にその先生に会うことがあって、僕が何か言おうとしたらすごい勢いでそれを遮ってこう言った。「いやもう何も言うな。言わないでくれ。分かってる。分かってるんだ」って。


戦争が終わると、調査のためGIと一緒に日本に来た。
伊勢神宮、正倉院、桂離宮を見て、本当に感動した。

50年代のロサンゼルスは木製のトラックハウスが主流で、木で柱を作ってプラスター板でカバーした簡単なものなんだけれど。それらがずらっと何十メートルも並んでいる様子というのは日本の寺社建築みたいでもあった。とにかく、日本の木造建築は僕だけじゃなく、アメリカの建築家たちにとても大きな影響を与えていたんだ。

日本の国宝を紹介する展覧会をロサンゼルス州の美術館でやった時、会場構成を担当したことがある。広重とか北斎、うつわ、文学など、題名まで覚えていないけれどにかく日本の文化にはまった。
雅楽の先生に演奏を習っていたこともある。僕は“チャリ、チャ、リーン”とやるパートを担当していて、先生に呼吸や間の取り方を教えてもらってなんとかその“チャリ、チャ、リーン”のパートに関してはお墨付きをもらえるまでになった。


これからどんなことをしていきたいか?
それは分からない。

僕は「建物(Building)」を作ることがたのしいし、好きなんだ。中毒なんだよ。
息子も建築家になることを決めたし、僕には今、一か月の孫娘がいる。義理の娘が韓国系の人なので、日本人やアジアの人を見ると家族みたいな親近感を覚える。

今、慈善活動に取り組んでいる。

カリフォルニアでは小学校を卒業できる子が半数に満たないという事実がある。刑務所で過ごす子の方が多いくらいだと言われる。
で、ミシェル・オバマ大統領夫人と共同でプログラムをはじめた。
「ターンアラウンドスクール」という、小学校にアーティストを呼んでアートの授業をしてもらう活動だ。
授業を受けた子供はみな夢中になって、手を使って何かをつくって。その成果が少しずつ出はじめている。それが今、たのしい。

小さい頃、床に座ってブロック遊びをしていた。
祖母が傍にいて一緒に遊んでくれた。
祖母にどんな思いがあってブロック遊びを勧めてくれたのかわからないけれど、アイデアがどんどん生まれていって、たくさんのアイデアのあいだを探検していくような感覚があったことを覚えている。


学校で建築の学生に教える時には、まず自分のサインを書かせるんだ。
一人ひとり書きかたも表現も全然違うってことをわかってもらう。
建物やエンジニアリングもそうだと思う。
まず一人ひとり違う個性とアイデアがあって、それを探究していくことから創造は生まれる。

最初の直感を信じることが大切なんだ。